あの人は恋してはいけない人 彼女に恋するのは許されないこと
だが、この想いは何なのか
君への恋は許されない
「もう……兄上ったら私がバーハラに来たからってお弁当がいいなんて言って……」
少女は走っていた。口ではぶつぶつと呟いてはいるが、決してそれが嫌いなわけではない。 エスリンはバーハラの神学校の生徒だ。兄のように家督を継ぐわけではない彼女は他の大体の貴族の娘のように社交界に出るのではなく神学の道を進んだ。 母方にヘイムの血を引いてはいるが、剣の使い手であるバルドの血の方が濃かったのだろうか、神学生だというのに細い剣さえ下げてはいるが。 まだ10に満たないくらいの少女ではあったが、ほとんどの場合がそうであるように、既に成長期を迎えているエスリンは同い年の中でも背は高めだ。もって生まれた気品とが更にそれを引き立てている。 今はまだあどけない少女だが、数年のうちに見違えるようになるだろうということが目に見えて伝わる。
(急がなきゃ。早く届けないと私が遅刻してしまうわ) 新入生だというのに遅れては、と足を速めたエスリンは、だからか角を曲がろうとするとき向こうからやってくる人影に気がつかなかった。 「きゃあ!?」 「うわっ」 盛大に正面からぶつかったエスリンはそのまま物理法則にしたがって倒れるか、と思われたがその瞬間に腕を取られる。 「大丈夫か?」 ぶつかった人が、支えてくれたのだ。エスリンはなんとかそれを理解したが、瞬時に慌てた。 (人にぶつかった挙句その人に腕をとられてるなんて……!) エスリンは振りほどこうかまず謝るべきか、それとも感謝するべきなのか。困惑のままに顔をあげた。まず、感謝することにした。 だが感謝の言葉を、と開こうとした口は止まってしまう。心配そうにエスリンを見ていた人と目が合ったのだ。 「彼」はエスリンと目が合ったのを見て取って、エスリンをきちんと立たせてから微笑んだ。
「よかった。怪我は無いようだ」 (あ、笑うと目元が可愛い) エスリンはぽうっとそんな事を考えると、自分で思ったことに赤面した。慌てて居住いを整える。 「あの、ありがとうございます……」 エスリンは丁寧に礼をしてもう一度彼を見た。背丈は兄と同じくらいだろうか。大地の色の髪は大陸に多い色なので、どこの出身かはよくわからない……。 兄を比較したことで、急に急いでいた用事を思い出した。エスリンは今度は謝るとまた駆け出した。 何故だか、頬が熱いのだ。
駆けていったエスリンを振り返りながら、彼は顔をほころばせた。 「元気だな」 若干15歳のレンスター王子、キュアンはたまの遠回りも悪くない。と思った。今日は起きなかったシグルドを置いてきてしまったが、明日は早く起こして誘ってみよう。
「え、じゃあ、君はシグルドの?」 「兄を知っておいでなのですか?」 翌朝(シグルドはやはり起きなかったので置いてきた)キュアンはまた遠回りの道を通った。 昨日の時間では遅刻寸前なのですこし早く来たが、昨日見かけた少女もまた早めに歩いていたらしい。再び出会うことになったのだ。 「私はレンスターのキュアン。シグルドとは友人なんだ」 「まぁ……キュアン様のことは、兄からよく聞いています」 「私が最後まで起こさないから、よく遅刻するはめになるとかかい?」 「まぁっ……」
(これは恋じゃない)
朝の時間は短いから、ほんの少しの時間。エスリンと過ごす時間は楽しいものであったから、それからキュアンはその遠回りの道を使うようになった。 なんとなく定刻に来ているからか、シグルドに弁当を届けに行くエスリンとは毎日のように会う。 シグルドをちゃんと起こせたときは三人でも話したし、たまに一人で登校してしまうエルトシャンも誘った。
そうして、一月もたった頃だろうか。 シグルドが珍しく熱を出して寝込んだ日。キュアンはエルトシャンと共にいつもの道を歩いていた。
「それでエルト、もう少しでまとまった休みが来るだろう?レンスターに来てみないか、丁度その時期はレンスターは綺麗だぞ」 歩きながらキュアンが言った。エルトシャンはもうすぐか、と思い眉をしかめた。国は嫌いじゃないがこの頃五月蝿いのは確かだが……。 「だが、俺は父上に休みには帰ってこいと言われていてな……早く俺の婚約者を決めてしまいたいらしい。 ラケシスも寂しがっているというし……陛下にも時間があったらアグスティに、と言われているし」 親友の申し出を受けたいのは確かだが、そればかり、というわけにもいくまい。 「なんだ、残念だな……。シグルドも同じような事を言っていたが、お小言が嫌だから来るそうだ……エスリンはどうかな」 エルトシャンは、おやっと思った。この頃キュアンの口からはよくエスリンの話題が出る。
「好きなのか?」 何の気もなくエルトシャンはそう聞いた。 別に、意味はなかったのだろう。キュアンがあんまりにもふわふわと浮かれているのでからかいたかっただけだ。 何故ならキュアンは、 キュアンは、エスリンに恋などするはずないのだ。
だが勢いよく振り返ったキュアンの顔に上っていた表情は想像とは違うものだった。真っ赤になって否定する訳でもなく、怒るわけでもない。
真っ青に血の引いたキュアンは、エルトシャンを呆然と見返した。 「……好き?」 乾いた繰り返しの言葉。エルトシャンはキュアンの突然の変化に狼狽した。 「どうしたキュアン」 自分の言葉がキュアンにこの変化をもたらしているのは確かだ。エルトシャンは今さっきの言葉が何か悪かったかと反芻した。 一見そうは見えないが、恋愛よりも武芸の稽古や友人と過ごすことを好むキュアンが、何故あんな言葉にこんな反応を返しているのだろう。
真っ青の顔のままキュアンは急に駆け出した。いつもの道だ。遠回りではなく。 「キュアン!?」 エルトシャンの呼び声がキュアンを追いかけるがキュアンは立ち止まらなかった。 とにかくキュアンを追いかけようとエルトシャンは駆け出したが、追いついたのは教室についてからだった。
「……今日は、こないのかしら」 エスリンはまた何度目かの呟きを口にした。朝キュアンがこの道をとおるならば、いつもこの時間だったが、既に10数分は過ぎている。 エスリンもずっとこの交差点で張っている訳にも行かない。酷く残念だがエスリンは今日は諦めることにした。 キュアンと数分話す時間はとても心を弾ませて、エスリンは幸せで一杯になる。だがそれができなかった、ということはそれまでキュアンを知らなかった頃よりずっと心を沈ませた。
これは、恋愛感情とは別のものだ。エスリンは思った。 あの人は、恋してはいけない人。そんなこと、とっくに分かっているのだから。 だからこれは、別のものだ。
キュアンは教室につくと真っ先に席についた。 まだ鐘が鳴るまで時間があるというのに、いつもならシグルドやエルトシャンとぎりぎりまで会話しているキュアンの常に無い姿に回りの学生は困惑する。 エルトシャンはそのやや後に教室に入った。そのまま真っ直ぐにキュアンの方へと急ぐ。 「キュアン?」 キュアンは額に手をあてて、エルトシャンの方を見なかった。 「おい、キュアン!」 無視されたか、とエルトシャンがやや声を強めた。 キュアンははっとしたように顔をあげる。気が付いていなかったらしい。 「エル、ト」 キュアンの顔は真っ青だった。
「……どうしたキュアン。体調が悪いなら無理をしない方がいい」 キュアンの体調を悪くしているところを見たことが無いエルトシャンは急に心配になってきた。いつも元気なものほど寝込む時は長引くという。 「来週は休みが続くだろう。その時に寝込んでなどいたらつまらないぞ」 キュアンは頭を振った。 「そうじゃないんだ」 エルトシャンは信じなかった。キュアンの顔は万全の体調、というには血の気が薄い。
エルトは心配性だな、とキュアンは冗談のように声を出したがそれすらも掠れている。 エルトシャンは納得しそうに無い。 キュアンは、恐る恐る、とでもいいたげに口を開いた。
「エルト、私は」 「……なんだ?」 「私は…恋をしてるのか?」 エルトシャンは目を丸くした。稀に見る表情に二人の様子を伺っていた学生が驚きの声をあげるが二人がそれに気が付くことは無い。 「俺に、分かる訳無いだろう」 それでもキュアンの言葉は真剣すぎたのでエルトシャンは軽い口で返すことは出来ない。思ったままを口にした。 そう、エルトシャンにわかるはずがないのだから。 「そう、だな」 キュアンは右手で顔を覆うと深く息をついた。そうしてまた顔をあげたとき、キュアンは常の表情に戻っていた。
(キュアンのやつめ)
エルトシャンは胸中苦々しく思った。だが、言わなかった。言いたくないと全身で叫んでいる親友に、どうしてこれ以上問い詰めることができるだろう。 「ほらエルト、授業が始まるぞ」 そういってキュアンは机の上に仕度を整えている。 エルトシャンは「ああ」と返事をして席についた。
キュアンは、エスリンに恋などするはずがないのだ。
キュアンはエスリンといる時に浮き立つ思いを感じていた。それは家族とも親友とも体感しないものだった。 キュアンはそれを感じていたが、それはおそらく馬があう為なのだ、と思っていた。 こうして毎日なんとなく同じ時間にあの遠回りの道を選んでしまうのも、その為なのだと。
だがエルトシャンに口に出して言うことは、キュアンの心をがらりと変えた。 (好きなのか?) 言い訳して、誤魔化していただけなのだ。
あの人は恋してはいけない人。エスリンは知っている。 彼女に恋をしてはならない。キュアンも知っている。
だが、この惹かれて止まない想いはなんなのか。
キュアンには、婚約者がいる。
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