愛してはいなかったと思う
けれど裏切りの瞬間は
思いの他深く、心に突き刺さったのだ






愛無き恋情





 北トラキアの早春。婚姻を上げた日は天気の良い日だった。
 北の春は恵みの春だ。淡い色調の花々が姿を見せ緑がほころんでいく。
 連合国の名だたる盟主が皆祝いにかけつけた。唯一人の王女の婚姻である。
 コノートにその男あり。と言われた有能な家臣はやってきた貴賓に笑顔を返す。
 主君の娘である王女は控えめな笑みで男を見上げたが、男は王女に返す微笑みは持っていなかった。
 男にとっての第一の喜びとは王女を勝ち得たということであり、王族の一員となったのだ、という確かな喜悦であった。
 王女はしかしそれには気がつかず。
 気がつかなかったのかしら。と当然のように思い自分も貴賓の方へ視線を向けた。


 だが、幸せなはずの結婚生活はそれからわずかに崩壊した。
 簡単である。
 男は、王女を愛していなかった。


 常に館に残された王女は、心の慰めにいつも窓から外を眺めているだけだった。



   貴方は一体どなたです。
   その髪の色瞳の色。
   異国の戦士でいらっしゃいますか。




「や、やぁ。レイドリック!」
 空元気なほどの明るい声にレイドリックは振り返った。若い王がそこに立っている。大袈裟なほどに礼をとって、レイドリックは敬礼をした。
「陛下におきましては息災なようで」
 その敬礼に王は満足したらしい。薄っぺらな自信をもってレイドリックを狩へと誘う。狩などろくにできない王ではあったが。
 それに比べたら王の叔父である元王弟の狩の腕といったら素晴らしいものであった。レイドリックは元々王弟の家臣であったので、それは疑うこともなく断言できる。
 王弟は武人の性を持ち、母こそ出自は低かったものの偉大な方であった。それをレイドリックは知っていた。
 とても傀儡にはできないと、レイドリックは熟知していた。


 若き王カールについて歩きながらも、レイドリックは待ち受ける春に対して哄笑を浮かべる。
「そ、そういえばレイドリック。妹の様子はどうかな?み、身ごもったと聞いたけれど」
 カールの言葉にレイドリックは笑みを深くした。継承権をもつ男児だということを、カールは分かっているのだろうか。
「はい。先日出産を終えまして。元気な男児でございます」
「それはよかったね!安泰じゃないか」
 レイドリックは笑みを深めて同意した。




   ねぇ貴方?
   わたくしに一夜の夢をお与えくださいな。




 がしゃん、と何かが割れた音がした。
 レイドリックは帰還した館において眉をしかめた。だから戻るのは嫌なのだ。
「も、申し訳ありません旦那様。奥方様は少々興奮していらっしゃいまして」
 王女が連れてきた乳母が必死で言う。レイドリックは苛立つ思いで鋭い視線を投げた。館の中は荒れている。とりつくろう時間もなかったらしい。
「よい!息子はどこだ!?」
「は、はい……こちらで」


 館の中で珍しく落ち着いた部屋の中で小さな子供は寝入っていた。
 興奮した王女によってつけられた爪の痕が微かに残っている。
 館のありさまと照らし合わせ、なんと気楽なことだろう。それも豪胆な証だ、といえたらよかったのだが。
 王女の髪もここトラキア半島の者に似合わず明るめの茶であったが、こどもの髪はさらに明るく見えた。
 だがいずれ深い色をするようになるだろう。そのすべすべとした肌も未だ開かれぬ瞳も。


 このこどもがコノートを掌握するのだ。
 レイドリックはほくそえんだ。
 そっと覗いていた乳母は、恐ろしさに息が詰まる。




   愛しい貴方。
   わたくしの愛する人は貴方だけ。
   何でもおっしゃいくださいな。
   わたくしが全て叶えましょう……。




 嵐の夜だ。
 レイドリックは館の私室で外を眺めていた。
 数日前、レンスターのキュアン王子の訃報が伝えられた。
 コノートを始めマンスター、アルスター三ヶ国皆反対したというのに、王子はグランベルで窮地に陥っていた反逆者シグルドを助けに向かった。
 そのツケがこれであった。
 王子は王太子妃、そして王女と共に砂漠に消え、神器であるゲイボルクは持ち去られた。
 それを思うと何度となく腹ただしい思いにかられる。
 トラキアとの勢力バランスは完璧に崩れた。
 トラキアに制覇されては意味がないのだ。それでは全く……


 その三日後、グランベルの空が赤く燃えた。











 その日レイドリックは忙しかった。カールの元へと訪れたりマンスターとの連絡を密に交わしていたのだ。
 コノートはマンスターが落ちればトラキアの次の目標地。決して手を抜く訳にはいかない。
 夜更けて館に帰ろうとしたときだ。
 耳障りな剣戟が耳に届いたのは。
 トラキアか?そう思わないわけはなく、レイドリックは単身足を進めた。運悪く連れの者は返してしまっている。
 だが想像とは裏腹に、それはありきたりな山賊の姿だった。それと戦う者の姿は異なっていたが……。
(傭兵か?)
 煤けた金の髪をもった男だった。
 傍には息も荒い馬が倒れ、そこから降りて切り結んでいる。
 切り結んで、というのは間違いかもしれない。手合った山賊は瞬く間に倒れ、大地に身を臥していくからだ。
(かなりの腕だ)
 下心がない、とはいわない。
 レイドリックはたからかに声をあげ、男に支援を告げた。



「よぉ、助かったよ」
 山賊が全て地に伏せた後、男がそう言って笑った。笑うとえくぼができる。
「いいや。貴殿は私がいなくとも充分だっただろう。素晴らしい剣の腕だ」
「いや、助かったよ……」
 謙遜だ、とレイドリックは思った。それほど男の剣は冴えたものだった。
 随分と疲れた様子の男は、暗い空を見上げて嘆息をした。やれやれといった調子で倒れた馬に近づく。
「もしも貴殿がよければ、我が館に招こう。ここからは程近い」
 男は変わったものをみるような眼で眺めてきたが、すぐにそれは不敵な笑みへと変わった。この目は、自分の剣を買われるのに慣れている。
「貴殿の剣に、惚れたのだ」
 俺に惚れたら火傷するぜ、と軽い口を叩きながらも、男はその申し出に承諾した。




「そういえば、王が変わったんだな。コノートは」
 古い話題だ。そういった視線に気づいたのか男は一言付け加えた。
「昔このあたりにきたことがある。その時は違ったからな。今は……王子様だったか?」
「カール陛下だ」
「ああ、そうそう。それ」
 地位になんの拘りもないような男の物言いにレイドリックは少々眉をしかめた。だがそれだけだ。
 なんとも滑稽で、男には似合っていた。笑いさえ浮かぶ。


「貴殿は名はなんという?」
 男はなんとも困ったような、悩むような気配を見せた。しかしそれも一瞬のことで、直ぐに常の笑みを浮かべる。
「俺はベオウルフ。傭兵だ」




 ・・・かしゃん、と音と共にカップが落ちた。
 恐ろしげな顔をした乳母は、絶望色の悲鳴を漏らす。
「どうした」
 レイドリックの言葉に乳母は力なく首を振り、それでもベオウルフから顔を背けることが出来ずに後ずさる。
(奥方様奥方様。大変でございます王女様……)
 直ぐに戻らなくてはいけない。そう思う。
 そうして彼女の女主人にどんな理由でも良いから部屋に閉じ込めて、絶対に出ないようにしなくては……。


 振り返った乳母は、だが喉の奥からひきつれた声を上げた。
 儚げに立ちすくんだ王女を見た。
 王女の瞳は吸い込まれるように唯一点を見つめ、それ以外を映すことはない。
 ベオウルフの瞳がほんの少し見開かれ、それから苦笑してえくぼができる。
「これは参った……」
 ……その覗いた瞳に、覚えがあった。






 失礼、と呟いた声と瞬間にその場から去った男を王女の瞳が追う。
 視界から消えた男の姿の代わりに王女は悲痛な声を上げた。
「レイドリック様!今の御方をお引止めくださいまし!」
 訴えるように縋り、狂乱した声を上げる王女にレイドリックはわななく口元を抑えるのみ。
 王女の瞳はレイドリックを映すことはなく、だが燃え尽きぬ恋の炎に焼けている。


 ……愛してなかった。

 だが愛無き故にその苛立ちは煩く、この縋る女に怒りが向く。
「黙れ!」
 加減無く打ち据えた手はそれでも拳ではなかったが、安穏と王女として慈しまれた女の頬は見る見るうちに赤く染まり切れた。
 痛みに慣れぬ体は壁に打ち据え、ずるずると力が抜けてゆく。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
 だがレイドリックは昂ぶる焦燥に己を抑えきれず意識の無い女を更に打ち据える。


 何度目か、と言う時に乳母が悲鳴をあげてその腕に身体をぶつけてきた。
「旦那様、なにとぞ、なにとぞお怒りをお静めください!」
 ぎし、と向けられた目は冷たい瞳で、乳母はいっそ気を失ってしまいたかった。
「お前、知っていたな」
 首を振ることは出来ず頷くことも出来ず、乳母はひぃ、と喉を鳴らした。それは肯定だった。
「貴様等は、この私を何年謀っていたのだ!」
 お許しください、と叫ぶ乳母の声に、レイドリックは忘れきれぬ裏切りの結晶を思い返した。


 あの瞳に、覚えがあった。



「今すぐだ」
 トーンを変えた主の声に、乳母は気がつくことなく許しを請うた。怒鳴るように繰り返す。
「今すぐに!あれを連れて貴様は出てゆけ!」


 ひく、と乳母の悲鳴が止まった。あれ、と指すのが王女ではないことに気がついたからだ。
「お、王女様をどうなさるのです」
「どうするかだと?」
 ああ、と乳母は絶望する。私はこの方を裏切っていたのだ。
 温かみの欠片も残らぬその声に、己の罪を悔いている。
「あの女は私の妻だ。それは変えようにも変わらぬな!」



 愛していないのに。乳母はその言葉が免罪符にならないと分かっている。
 愛していなかったとしても、男は一度も王女を裏切ることは無かった。
 婚姻は契約である。
 男はあの日以来王女以外に薄い唇を寄せることはなかったし、それは誇りでもない当たり前のこと過ぎた。
 たとえ愛されていなくとも、王女のしたのは裏切りだった。



 恐ろしいことをしてしまったのだ、と乳母は痛切に思う。
(ああ、王女様。貴女様をこれ以上お守りできない私をお許しください)
 願わくば、願わくば、そう……。
(貴女様が王女としての自覚を取り戻され、レイドリック様をお諌めできますよう)
 無理だろうか?
 だが可能であっても己の罪は消えないに相違ない。




「さぁ!」
 レイドリックは冷たい瞳で叫ぶ。



「フェルグスを連れ、はよう出てゆけ!」

















 そしてコノートは消える。王家の断絶によって。
 北トラキアを飲みこんで、冷たい男の野望が暴れだすのだ。


 その暴君の名を、レイドリックと歴史は残す。















(03/09/13)