暗い森
深い闇
月の明りで歩く夜


この月はきっと
あなたのことです






森羅の月





 瞳を開いた時、そこは暗闇だった。
 その暗さに一瞬また瞳を閉じたが、そのとたん襲った恐怖に再び瞳を開いた。やはり暗闇だ、しかしまったくの闇だという訳ではない。
 ガラス戸から洩れてくる月光が、今度は瞳に飛び込んできた。
 眠りがすっかり覚めてしまった。”捕虜”には似つかわしくないたっぷりとした羽毛をうざったげに押しのける。
 扉や窓にはやはり一応格子が付けられている。だが窓がある時点でこの部屋は本来捕虜を捕らえるつもりで据えられたのではないのだろうと思う。
 たった数日だというのに、随分と弱くなってしまったものだ。
 サラは、そんなことを考えながら窓の近くへとよった。月をみると安心できた。
「早く」
 言葉を舌に乗せてみると、もっと安心した。ほんの少し気を良くしてもう一度呟いてみる。
「早く来て、リーフさま」
 言葉に出すとふわりと暖かい大気に包まれたような気がする。胸の奥に聞こえる綺麗な声は極近くにいる。それも当然だ。数日前に、彼のもとを不慮の事故で離れてしまっただけなのだから。
 サラは月を見ながらもう一度リーフを呼んだ。あのひとはきっと、呼び声に気が付かないことはない。
 ひとつ心配なことはリーフの身が危険に晒されるかもしれない事だ。そんなことになったらサラはとても悲しい。悲しいから考えないことにしている。
 もうすぐ、闇がやってくる。リーフとどちらが早いかはよくわからない。


 怖い夢を見た。

 サラは、早く来て下さいと祈ってみた。








「セリス公子と、ずっと話していたんだ」
 セリスが帰った後、サラはリーフの下を尋ねた。これから出撃の準備が始まるはずだがサラは魔道書の一つと杖を持っていれば事足りたし、先程アウグストがリーフの部屋を出たばかり。デルムッドがもうすぐ来るから、今訪れないとリーフの邪魔になってしまう。
 リーフはサラを見るといつものように名前を呼びかけて、自分の横に座る場所を作ってくれた。
 サラはそこに腰掛けてリーフの様子を眺めていた。
 リーフから軽い興奮感と憧憬の意思が伝わる。リーフはどうやら、セリス”皇子”に大層憧れているらしい。
「凄いよ。なんというんだろう……全身から光が滲み出ているような方だった」
 リーフは少しでもわかりやすく伝わるようにと話しているが、実はサラは知っている。つい一刻前ほどにリーフの部屋を訪れようとしたらそこにセリスとユリアがいたのだった。始めはいたはずのデルムッドは席を外していたが。
 ユリア皇女がいることに、サラは一瞬で気が付いた。開けようとした扉から即座に離れた。隣室でじっとしていたら、ユリアが記憶を失っていることに気が付いたがわざわざ再び前に出て行くことは考えなかった。
 なにより、サラは横にいたセリスが怖かった。


「どうしたら、あんな立派な方のようになれるのだろうな……」
「あたし、リーフさまの声好きよ」
 微かにリーフの声に滲んだ自分への失望に、サラはどこか不満を感じて話し掛けた。リーフは話の突拍子なさに目を丸くする。
「セリスの声より、リーフさまの声が好きだもの。あたしはリーフさまにセリスみたくなって欲しくないわ」
 あの光は眩しすぎてサラを焼く。
 決して彼はそんなことはしないのだろうと分かっていた。彼が聖王国を作ることを知っていた。
 しかし大多数のサラの”同類”たちは、彼の治世において満足することも納得することも、安心することも無いだろうとサラは思う。
 あの光は眩しすぎて、闇に浸るほど、勝手に傷つく。
「リーフさまの声が綺麗だから、リーフさまを助けてあげたいの。リーフさまだから。
 セリスだったら、あたしきっと僧院を出て来もしなかったわ」
「サラ、でも僕は……」
「もう。リーフさまはリーフさま。それでいいでしょ」


 サラはリーフの腕に飛びついた。急に腕に体重がかかってリーフは後ろに倒れこみそうになるが、上手くバランスをとる。
 サラはそれをいいことに一層しっかりとリーフの腕を抱え込んだ。
 半年近く、ずっと鎧を外す余裕を与えられなかった腕にはおそらく鎧の痕が残っているだろう。今は白銀の鎧から解放されている腕。
 リーフは左手にかじりついているサラの髪を、右手で優しく梳いてやっている。サラの言葉は突拍子がなく、端から聞いていれば何を言いたいのかわからない。だがリーフには伝わったらしい。
 サラが与えてくれる無色の好意は、リーフの心を落ち着かせる。


 それからしばらくしてデルムッドが部屋を訪れた。
 サラは不満そうにリーフから離れたが、デルムッドは複雑そうな間の悪い顔をした。




 ダンツヒ砦までの道のりは、意外と単純だ。サラは後方から進軍しながらそう思っていた。
 半年間戦い抜いたレンスター軍にとって、後がないという切羽詰まった意識から解放されたこともあっただろう。それ以上に修練を積んだレンスター軍には余裕を持って応対できる相手だった。
 何人目かのトラキア兵に雷を落として、サラはふと前方を見た。あの遠い騎士に囲まれているあたり、あそこにリーフがいる。
 リーフさまは大分かっこよくなってしまった。サラは前方を眺めて思う。
 白銀の鎧を纏い、白いマントを翻して戦陣を駆けるリーフの姿はとても目立つ。格好の的ともいえたが、リーフは決して安易に剣にかすりはしなかったし、そのマントにさえ触らせない。
 ドリアスが亡くなってから、リーフのどこかが確かに変わった。
 本質といえるものは変わっていないし、表情をよく変えて照れたように微笑むリーフにはなんの変わりもないように思える。
 だけれど、その少年性が、音をたてて崩れたのをサラは知っている。
 あれからリーフは大分かっこよくなってしまった。
 サラはとても不満だ。


 リーフは誰かが死ぬことを理解した、自ら戦陣に身を躍らせる。

 サラは、とても不安だ。



 前線のリーフの姿。サラは目を細めた。
 電撃のように走った予兆に持っていた杖の一振りを掲げる。
「サラ!?」
 リノアンが戸惑ったように呼びかけた。サラは構わず杖を発動させる。


 リワープ

 サラは一瞬でリーフの背後に現れた。それを間近で目撃したデルムッドが驚愕の色を浮かべる。
 サラが現れたからではない。そのサラを間にはさむように、リーフの後方に黒衣に包んだ司祭が現れたからだ。
 黒衣の司祭に刻まれた同じ驚愕。サラはそれに何の興味も抱かなかった。
「サ……!」
 だから、司祭が自分の名を呼ぶ前に、サラは雷を放っていた。
 ぼそり、と炭化した魔道書が大地に落ちる。


「サラ」
 リーフが声をかけた。芽生えた予兆が音を立てずに消えていったのでサラは一息ついた。
「リワープの杖をもった司祭、大分でてきてるみたい。ちゃんと後ろも気をつけてね」
「ありがとう、サラ。でも一旦後方に戻るんだ。前線に予備の魔道書を持っている者がいないから……」
「わかってる」
 サラは先程かけて壊れたスリープの杖を放り出して、未だ驚愕の色の覚めないデルムッドを見た。
「何を驚いているの。リワープを見るの、始めてだから?
 イードに出向いた部隊じゃなかったから、ロプト僧を見るのが始めてなのね。覚えておいた方がいいわよ」
 じゃないと足を掬われるから。と言外に滲ませてサラは言葉を切った。
 デルムッドは瞳の青を強めて「わかった」と言った。
 気の抜ける物分りのよさ。なにより瞳に浮かんだ客観視の色。サラは好きでも嫌いでもない人だと思った。
 主観に構わず、物事を見据える瞳。
 サラはそういう人が嫌いではなかったが、好きでもない。


「じゃあリーフさま、あたしは一旦戻るわ」
 そう言ったときだ。
 目の前に出現した3人の黒衣の司祭に、サラは目を見開いた。
「サラ!」
 リーフの声。
 サラは魔道書を取り出そうとして既に壊れてしまったことを実感した。これは油断だ。
「リー……」
 リーフさま。呼びかけは最後まで続かない。
 サラは黒衣に包まれた。リーフの姿が見えなくなる。手を伸ばしたが指の先は闇だった。
「やはり、サラ様」
 瞬間後に包まれた魔力の波動に、リワープが発動したことを知った。











 サラは部屋の真ん中でうずくまっていた。月が雲に隠れてしまって、サラは月を眺める意義をなくしたかのように窓から離れた。
 もうすぐ、自分を連れにベルクローゼンの大群がやってくる。
 あいつらは嫌いだ。でもそれ以上にリーフが好きだ。
 リーフの声を聞いていると幸せな気分になったし、リーフのまとう空気はサラのお気に入りだった。
 リーフの傍にいられることがサラは嬉しかったし、リーフの傍にいられないのはそれはそれは悲しいことだ。
 取り上げられたリワープの杖があれば。
 あの杖があれば、今にもリーフの下に飛んでいけただろうに。


 一寸先も闇に包まれてサラは目を閉じた。
 自分を探すリーフの声が聞こえる。
 とても綺麗な声だ。清廉さに潔癖さの宿る、それでいて感情の多く占めた声。
 サラを呼んでいる。
 リーフさま、とサラは呼ぼうとした。きっと気が付く。


(サラ)

 サラは声を凍らせた。頭の中に響いた懐かしい声。

(サラ、――せ)

 ぶんぶんと頭を振って毛布を上から被る。耳を塞ぐ。意味はないけれど。

(サラ、殺せ!)

 血を吐いて倒れた母親。毒に侵された身体はそのままでも死んでしまうだろう。
 阻まれた格子に駆け寄ることも許されなかったサラは闇の魔道書を抱いて震えることしか出来ない。
 あれは誰だ、誰だ。ママ、いや、違う――。


 リーフさま!

 ――怖い夢を見た。





 扉が開いた。高く音をたてて開いた扉から光がさす。
「サラ!」
 サラは顔をあげた。閉じていた瞳から流れた涙が頬を濡らしている。
 剣を収めて駆け寄ってくるリーフ。
「もう、大丈夫」
 リーフの優しい手がサラの髪をゆるやかに梳いた。サラは一層頬を濡らした。
「さみしかった」


 たったひとりはさみしかったよ、リーフさま。





















 暗い森
 深い闇
 月の明りで歩く夜


 それだけしか光は見えず
 ともすれば弱弱しいかもしれませんが


 空を見上げたら月
 微笑みが口元にのぼる
 また歩き出せる


 あなたはきっと、あたしの月です















 (03/01/11)