あなたに向ける決別
あなたに託す理想
あなたに預けた願い


殺し殺され合う戦い
赤い流星が降った時に決まっていた



私はあなたを殺します
私の信じる全ての為に
あなたが私を殺すでしょう
あなたの信じる全ての為に



あなたへの怒り、憎しみ……想い
それは言い表すならば
せつなの恋






刹那の恋





 風が、心地良い。
 バルコニーにもたれてイシュタルはマンスターの街並みを眺めていた。整然と整えられた街には一見何の憂いもない。
 午前の政務を終えて食事も済ませ、何の時間とも決められていない間。
 こんな風に過ぎていく日々があともう少しで変わってしまうのをイシュタルは悟っていた。ベルクローゼンだ。
 ベルクローゼンが定例の、と称してマンスターで礼拝を行なう為にやってくる。
 駐留帰還は一ヶ月と決められているが、その目的は明らかなのだ。
 マンスターでは少ないほうだが、教会に引き取られた子供や、当然街の子供たちも。
 もちろんイシュタルがいる元でそうおおっぴらに行いはしないだろうが、その期間中にバーハラに出向かねばならないときもある。
 マンスターを正常に保つことも、やってくるベルクローゼンを抑えることも、イシュタルにはなんの苦もなくできることであったがこれだけは例外。
 ユリウスの元に呼ばれるときを、無視することは出来ない。
 これはマンスターにイシュタルが就任してから変えられることはなかったのだ。


「王女」

 密やかな呼び声がイシュタルの思索を遮った。しかしそれは予想していたことだったので、イシュタルは不自然と見られない程度にバルコニーの下へ視線を向ける。
 目立たない外衣に身を包み、深緑の色の髪をもつ青年が、ひっそりと佇んでいる。
「王女」
 青年はもう一度呼びかけた。イシュタルの視線が向けられていることはわかっていたが、見てはいないかもしれない。それを危惧してのことだった。
「どうなされたの」
 青年にやっと届くぐらいかの囁きでイシュタルは答えた。ここはマンスターの宮だ。宮内に本来そこで見るはずのない姿を見ているというのに、イシュタルは落ち着き払った声だった。
「王女がいつもの時間にいらっしゃられなかったので、具合でも悪いのかと」
「お見舞いをするつもりでこんなところまでいらしたの?」
 青年はそれには答えなかった。若干顔を赤らめたので、それにはイシュタルも少し驚いた。まさか本当に見舞いに来た訳ではあるまい。


「子供たちが……心配していました。いつものお姉ちゃんがこない、と」
「あなたは、今日もいらしてくれたのね」
 ありがとう、と言外に含んでイシュタルはその話題を終らせようとした。聞きたいことは分かっているのだ。
「王女」
 誤魔化されない、とでもいいたげに青年は呼びかけた。
 イシュタルも、別にかたくなに告げないつもりではなかった。
 むしろ、頼みたいことがあったのだ。この青年に。
「三日後、ベルクローゼンがマンスターにやってくるわ。その仕度に忙しかったの」
 青年の色が明らかに変わった。声を荒げかけてとどまる。
「何故」
「ベルクローゼンが来る事はもはや決定事項。私は彼らの駐留の準備をしなくては」
「それが聞きたいんじゃない」
 何故、と未だ青年の瞳は言っている。イシュタルはそれに答える気は無かった。この青年に伝わるとも、伝えたいとも思っていなかった。
「だから、お願いしますね」
 え?と青年が聞き返す。それを聞いていなかったかのようにイシュタルは言った。
「私は二週間後から一週間、バーハラにいかねばならないの。だから、お願いしますね」
 青年の顔が緊張に彩られた。イシュタルの言葉に含まれた意味を悟って。
「あの子たちには、守ってくれる親もいないの……でも、とても強い子達。
 お願いしますね、勇者セティ」


 イシュタルは部屋の中に戻った。
 青年はもう一度だけイシュタルを呼んだが、閉じられた窓は再び開きはしなかった。風の通らない室内にイシュタルは戻っていってしまった。
「……イシュタル」
 セティは呼びかけることのない名を呟いて、誰にも気がつかれないように宮を出た。
















 ある晩、セティの後ろでことり、という音がした。セティは口の中で詠唱を呟いて後ろを振り返った。
 マンスターに捕われていた子供たちを解放し、リーフ王子の脱出の手助けをしたセティ。自分だとは感づかれてはいないようだったが警戒は怠ってはならない。
 後方に佇んでいた人を確認したセティは、だが大きな驚きをもって「彼女」を見た。
「王女……!?」
「こんばんは」
 マンスターに戻ってきていることを聞いても、あの日以来教会にも訪れない久方ぶりのイシュタルの姿はセティを狼狽させた。まさか、考えてもいなかったが。


 ……殺しにきたのだろうか?

 イシュタルからにじむ圧倒的な魔力の波動はセティをもってしても冷や汗がでるほどだ。だが後ずさる気は一向に湧かない。
「ふふっ……そう警戒しないで。今日はまだ、そのために来たのではないの」
 今日はまだ。イシュタルはそう言った。
 全身を包む抑えきれない何かが警戒しろと叫んでいたが、セティは右手に宿った風の根粒を霧散させた。
 久しぶりなのだ。


「父上に呼ばれたの。コノートに行くわ」
 イシュタルの、セティに対する言葉はいつも端的だった。セティはそれが嫌いなわけではなかったが、もっと長く話してみたいと思っていた。
 コノート、という言葉とは結びつくものがある。
 解放軍だ。
 セリス王子の解放軍が、コノートの向かっているのだ。イシュタルはそのために呼び戻されるに違いない。
 こうしてただ立っているだけでもイシュタルの強大な魔力が分かる。解放軍相手に、イシュタルが死ぬことは無いだろう。
(何を)
 セティは一瞬でもそう考えてしまったことに深く恥じた。
「代わりに……レイドリック卿が来ることとなってるの」
 イシュタルの言葉にセティは現実に立ち戻った。至高の紫を秘めたイシュタルの銀の瞳を見る。
 憂いを帯びた瞳だ、と始めてみた時もおもったのだ。
「レイドリック……それは」
 セティはそれ以上の言葉を呑んだ。言わなくてもイシュタルはわかっているだろうし、イシュタルの言いたいことを誤解しているとも思わない。
 言葉を切ったセティに、イシュタルは短く告げた。
「リーフ王子が来るわ。トラキア解放軍を連れて」
 それまで耐えろ、と言っているのだ。
 マンスターを、守れといいたいのだ。
 イシュタルがいなくなれば動き始めるだろうトラキアから、そして、帝国そのものから。


 言うべきことを告げて、イシュタルはふっと視線を落とした。一瞬の後にイシュタルを魔力の波動が包む。ワープが発動しようとしている。
 これからコノートに飛ぶのだろうか。それとも一旦マンスター宮に戻るのだろうか。
 どちらにせよ、イシュタルはきっと死ぬことは無い。


 そしてまた、いつものようにバーハラへ行くのだろうか。

 セティはイシュタルの手を掴んだ。座っていた椅子がゆっくりと倒れた。
 ワープの魔力がぱしり、とセティを拒否している。弾かれそうになるその勢いの中、セティはイシュタルの手を掴んでいた。
「勇者セティ?」
 イシュタルは一旦ワープを解除した。ワープの魔力が変なことになってしまうのを怖れたのだ。そうして、何故か自分の手を掴んでいる人を訝しげに見つめた。
 セティはじっとイシュタルの瞳を見ている。手を離すそぶりも見せないのでイシュタルは困惑した。
「なにか……?」
 イシュタルは急に居辛くなったこの部屋を早く出たいと思った。この人は一体何の用があるのかと不思議に思う。
「イシュタル」
 セティの声。一瞬誰がそんな風に呼んだのかわからなかった。イシュタルはますます困惑した。
「イシュタル」
 掴まれた腕、合った目線、セティの口から出たことの無い名称にイシュタルは恐怖を感じた。
 駄目だと思った。
 この人にこれ以上私を見させてはいけないと思った。
 何より、こんな風に捕らえられることはただ一人にしか赦せなかった。
「離して」
 セティはその手を離さなかった。


 たまらなく怖い。
 酷く憎い。
 恐怖を越える怒りが包む。


「触らないで……っ!」
 短く叫んだ言葉は、どこか涙を帯びていた。






 セティは手を離した。イシュタルが一瞬でワープの光に包まれて消える。
 どこか暗くなった部屋で、セティは倒れた椅子もそのままに床に座り込んだ。
 どうして他に何も伝えられなかったのだろうとセティは自問する。



 どうして、その名しか呼べなかったのだろう。



















「ねえさまぁっ!!」
 ティニーの呼び声。赤い闇と共に降り立ったイシュタルはその声に表情を和らげた。
「残念だな」
 隣に寄り添う少年は少しも残念がっていない顔でイシュタルに囁いた。
「イシュタル、お前が所望のようだ。今回の遊びはイシュタルに勝ちを譲ってやろう」
 イシュタルはこくりと頷いた。ティニーの表情が凍る。馬から降りたアーサーがそんなティニーの傍に駆け寄って妹から二人を遠ざけようとしていた。
「イシュタル……王女」
 ひたすらに走ったのが報われたのか、セティはその場に追いついた。
 イシュタルにまとわりついた雷が鳴りを潜める。


「何故だ」
 いつかも言った言葉をもう一度告げた。後方に控えた少年が眉をしかめたのにセティは気が付かなかった。
「勇者セティ。やはりあなたは、反乱軍に身を投じたのね」
 問い掛ける言葉の意味を捉えているはずなのに、イシュタルは答えなかった。
「イシュタ……」
「残念だわ」
 イシュタルはセティの呼び声を斬り捨てた。それ以上、聞く気がないのだ、彼女には。
 それでも、とセティはなおも言い募る。
「貴女は何故ユリウス皇子に従うんだ!貴女とて帝国のやり方には賛同できないのではないのか!それなのに……」
「黙りなさい!」
 雷竜が立ち昇る。
 イシュタルは真っ直ぐにセティを睨みつけた。この男をこれ以上喋らせておけない。
 放たれる竜に、セティはフォルセティを唱えるほかになかった。



 せめぎあう力の奔流の中、イシュタルは考えた。
 確かにこの人は強いのだ。
 きっと私を殺せるのはこの人ぐらいだろう。ユリウスを除けば、だけれども。
 だから……この人なら、私を殺せるのだ。


 イシュタルは背中にふと温もりを感じた。ユリウスだ。
 この人は、なんでもお見通しなんだろうか。己の中によぎった考えを見透かしたのだろうか。
 愛してる人。
 でも、この一瞬だけの恋は、あなたにむけられたものではなかったと。
 私を殺せるあの人に、瞬間感じたものだった。


 身動きするだけでも、きっと辛いだろうに。セティが何か言っている。
 どうしようもなくせつない顔で、何かを告げてる。
 差し出された手。
 私に差し出していたのだ、と気が付いた瞬間。フォルセティを飲み込んだ。



「セティ!」
 血族の少年が必死に呼ぶ。ティニーは彼に守られながらがくがくと震えていた。
「ユリウス様、私の勝ちですね」
 ユリウスの腕の中から解放されたイシュタルはさくり、と数歩だけセティに近づいた。
 もう、何も言わない人。


「    」
「え?」
 ユリウスに呼ばれた気がしてイシュタルは振り返った。ユリウスと目が合う。でも、ユリウスはイシュタルを呼んだ気配は無かった。
「……ル」
 確かに誰かが呼んでいる。しかしユリウスではない。この場に、こんな風に自分を呼ぶものがいただろうか。
「イシュタルッ!」
 今度はユリウスの声だった。ユリウスの怒りの声。どうしたのか、そう思った瞬間、腕をとられた。
「イシュ…タル……」
 セティだ。
 生きていたのか、信じられない思いで見返すイシュタルに、セティが何か言った。唇の形だけで、音には出なかったけれど。
「イシュタルから手を離せ!」
 ユリウスが来る。セティは何かいい終えた後、酷く優しい顔で微笑んだ。


 翡翠の、竜。

 眼前を翡翠に染められて、イシュタルは意識を失った。
 目覚めた時、そこはバーハラで。ずっとユリウスに抱きしめられていた。
「ユリウス様……」
 愛してる人。
 セティに抱いた一瞬の感情は跡形も無い。









 それは言い表すならば
 ――刹那だけの、恋だった















(02/12/19)