まるで鏡を見ているようだ、と そよぐ銀色の髪 血の流れる滑らかな肌 悲しい瞳
それを見て、思った
もしも歯車を違えたら あれは
鏡の中の戦争
コンコン、とノッカーを叩く。 返事は返ってはこない。これは話に聞いて既に知っていた。無視されているのではないはずだ。 若き公主は返事を待たずに扉を押し開ける。鍵はかけられていない、塔に見張りはいたがこの最上階には食事を運ぶものが訪れるだけである。
この部屋には元々ノッカーが据えられていたのではない。 確か先々代の当主が見初めた公妃、彼女のために造られたものであった。ノッカーなど必要なかった。戯れに愛情を示すために作られた塔に愛を理解はされなかった。 だからこのノッカーは最近になって据えられたものだ。塔の中で静養を続ける一人の女性のために。 彼女の身体は未だ癒えては居なかった。最高位の神風に吹かれた傷は色濃く残る。身体の傷は一向に癒えない。それは彼女自身の心にかかっていた。むしろそれが問題であった。 癒えなくとも良いと。いっそ儚く消えてしまえばと思っているのではと妹は告げる。それ故に部屋の中には一切の刃物も置かれなかった。 かつての領地内ではなにかと不安要素も見え隠れする。故に己に預けられた佳人は従姉妹である。
開かれた部屋は華美ではなかったものの整えられた調度品に包まれている。 ほとんどのものをそのままにしてあったが宝飾品などは売ったためにない。だが寝台や椅子の張られた布に高価なものであると見て取れる。 そのあらゆる物を翳ませて、一層美しい最上の宝物は椅子に腰掛けて窓から外を見つめる女性であった。はめ込まれた硝子には触れることができないように美しく格子が嵌っている。 女性は漆黒のドレスを纏っていた。これは彼女がその色しか着ようとしないためである。そのため必然的に黒い服ばかり増える、それは喪服であった。 元々黒い服がはっとするくらい似合う女性であったが最後に見たときよりも一層似つかわしい。表情の憂いがそうさせるのであろうか。 蒼銀の瞳は長い睫毛の下で曇り面やつれが見える。長い髪はくすんで見えたがいずれも彼女の美を損なうものではない。
近づいて。
近づいて名を呼びかければひっそりと振り返るのだと聞いていた。だが無駄なことをこよなく愛していた公主は別に返事が返ってこなくとも良いと思っていた。時間がないわけでもない。
「イシュタル」
返答を期待されていなかった呼びかけに、だが彼女はびくりと頬を揺らした。それで倒れてしまいそうに激しく振り返った彼女はこちらを凝視していた。 瞳がかすむ。 イシュタルは何度も瞬きをして、それからふっと失望を乗せた。 「イシュタル、調子はどうだ?」 公主、アーサーは足を進めてもう一つの椅子に腰掛けた。彼女がそこに何を見たかったのかを彼は良く知っていた。 「最近は、とても良いわ」 「ティニーのようにいつも来ているわけじゃないからわかるんだけどな、やつれてるぞ。 無理をしないで寝ておけよ」 イシュタルは静かに首を振った。アーサーもそれ以上は言わない。 代わりにろくに手のつけられていない食事をみて露骨に顔をしかめてみせる。 「勿体無い」 イシュタルは、それには申し訳なさそうに髪を揺らした。 「食べようとは思っているのだけど」 深層心理でそれを厭っている。彼女の意識は食事を作ってくれた者に申し訳ないとか訴えているはずだ。少なくとも妹から聞く彼女像ではそのはずである。 「俺も大分偏食だけどさ、今日のは好きなのばっか作ってもらったんだぞ」 「……私の?」 「いや、俺の」 お前の好きな食事なんてわからないから、と断言するアーサーにイシュタルはほんの少し笑った。もうずっと笑い方を忘れてしまったようないびつな微笑みであった。 そのいびつさに眉を顰めることなくアーサーは余った食事をつついていた。身に付いた庶民意識か、もしくは好きなものだからかが残っていることを許さないらしい。 (そうだ、あの方も好き嫌いは多かった) 幼い頃はそれでも無理に食べていた。優等生でいたかったのだ。
イシュタルは黙って食事をするアーサーの姿を見つめいた。思わず振り向いたほどに滲む緋色の気配。だが火の気配でもその色は全く違う。短く切られた銀色の髪も、冷たさを宿す赤い瞳も。 襲い掛かるものが安堵なのか失望なのか、深く息を吐いたイシュタルに軽食を終えたアーサーがじっと視線を注いだ。 「ユリウスに似てるか?」 「……いいえ。始めは驚いたけれど、皇帝の方がずっと似てるわ」 「俺とユリウスも、従兄弟だからな」 かたりと木でできたフォークを置いてアーサーは軽く口元を拭った。その瞳はヴェルトマーの血を赤々と示す紅である。 「父は前公主の異母弟。多少作りが似ていても変なことじゃない」 だがその性質はまるで違う。イシュタルがユリウスを決して安心させることができなかったように、アーサーとユリウスも別のものであった。 「俺とユリウスは、だから同じじゃない」 それは、当然だ、だから。 「イシュタル、お前と同じで」 イシュタルは目を見張ってアーサーを見た。フリージの色をした銀の髪はさらりと肌にかかっていた。 「ヒルダの経歴を見た。ヒルダは認められなかった先帝の異母妹……お前もユリウスの従姉妹なんだな」 アーサーはさらりと髪を梳き上げる。
その姿が、一瞬鏡を見ているように思えてイシュタルは瞳を凍らせた。
「戦争が終わって、嵐のような事後処理に追われて……やっと色々考える時間ができたよ」 アーサーは今まで領地内にイシュタルを置きながらもその存在を人として扱ってはこなかった。イシュタルという存在として扱っていた。それはつまり、会いにこなかったということである。 忙しさゆえであったが、それほど彼女に面識することを欲しなかったということが強い。現にティニーやセリス、セティなどは多忙の時間をぬってこの塔に訪れている。 「多分、俺は」 その紅い瞳は直接的だった。 「ずっと、お前に逢うのが怖かったんだ」
イシュタルとアーサーはおそらく。 二人とも善政を敷き優れた臣下を重用することができる。 凍えるほどの美しさはだが一本の線を引き、人柄でそれを超えてくる臣下を呼ぶだろう。
でも、絶対に異なる道を選ぶ。 何故なら生きてきた道が違うからだ。
それは、反語を秘めていた。
……もし俺がユリウスの傍近くで遊び相手として育っていたのなら、どうしていただろう?
そう考えたのはヒルダの出自を知った時であった。アルヴィスに認められなかった妹。認められた父。 それはひょっとすれば歯車一つでずれた位置であったのではないかと思った。 もしかするとシグルドの所へ行ったのはヒルダかもしれず。 もしかすると帝国に生きたのは己かも知れず。
もしかすると、ユリウスのために己は生きていたかもしれない。
たまらずイシュタルに会いに行った。 しがらみ ユリウス一つ失った彼女は自失したように日々を過ごしている。それは、ひょっとすると。 しがらみ 仇 を失ってしまった己の姿。
「イシュタル、お前は」
「鏡の向こうの俺だ」
その瞳は紅であった。三精霊を宿す強力な魔力の持ち主。 短く切られた銀の髪も、背丈も、瞳の輝きさえ今は違う。 かつて戦場に在った時、イシュタルは血族の運命を嘆いたものだった。己のものではない。 反乱軍の中に、直ぐ傍の司祭に、その身に流れるヴェルトマーの血が。あと一欠けらあの人に注いでいたならばどうなっていただろう、と。 己の運命を嘆いたことは無い。 イシュタルには確信がある。
幾度選択を選ばされたとしても、私はきっとこの道しか選べない。
私が、私として生きているならば。
――だから、この人のように生きていたならば、私には確信がある。
アーサーは紅い瞳を細めた。 「幾度選択を選ばされたとしても、俺はきっとこの道しか選ばない」 だから、と続ける。 「イシュタル、お前が何をしようとしているかも、わかる」
生きる気力の失せた女に、アーサーはきつい視線を向ける。 「逃げるなよ」
どこから (誰から?)
貴方は鏡の向こうの私。 これしか選べない私と、それしか選ばない貴方。 既に違う生き物だと、だから貴方も気がついている。
|