私はあまり夢を見ない
たまに見ても、それは直ぐに忘れてしまう その度にスカサハが少し目を優しくして、私の髪を梳く
私は夢を覚えていない だから、伝う涙の意味を、私は知らない
わたしのみたゆめ
嵐の夜だ。 風が煩いほど窓を叩いて、雨が戸を叩く音がひっきりなしに続く。 窓の向こうは真っ暗な空があるだけで、木が風にあおられてざわめいているのが微かにわかった。 私はシーツの上でまどろみながら、既に目を閉じているだろう片割れの名を呼んでみた。 「スカサハ」 「ん?」 兄はまだ寝ていなかったらしく、意外にも返事が返ってくる。 実際、私が寝てしまう前に、この兄が寝ていることはほとんどないのだった。夜も、朝も。 「手を繋いでもいい?」 「…なんだ、子供みたいだな」 兄はそう言いながら笑うと、私の手に自分の手を重ねてくれた。
大きさが全然違う。昔は私たちは見間違うほど似ていたのに。今では間違える人なんて一人もいないだろう。 それでも体温は変わらない、と思った。私よりほんの少し体温の高い手。 温かい温もりは私を安心させるけれど、少し、落ち着かない気分にもさせる。
急速に襲ってくる眠気に抗いながら、私は目を閉じた。「ラクチェ?」と兄の訝しげな声がした。 「……最近、眠りたくないの」 暗闇は否応無しに私の瞼を閉じさせる。 「嫌な夢を見るわ」 兄の、繋がない手が髪を梳いてくれるのがわかった。 ついで柔らかく額に触れられる。
それきり私の意識は途切れ、その後スカサハが囁いた言葉は覚えていない。 戦争がもう直ぐ終る。バーハラへと近づく度に、私は嫌な夢を見る。
覚えていないのに。
「いいの。ヨハルヴァ」 戦場に二人佇む、男と女。 一人は漆黒の髪に紫の瞳をした軽装の娘。土埃の巻き上がる中、艶やかな黒髪は風に遊ばれている。紫をした透明な視線はまっすぐと迫る音に対して向けられており、横の男を見ることはない。美しく華奢ではあったが、儚さを感じさせない娘だった。研ぎ澄まされた刃のようである。 一人は、大樹の色合いを宿した屈強な男。大振りの斧を担ぎ、迫る音に対して弓を引いている。その瞳はだが音に対して向けられてはおらず、傍らの娘をどこか切ない瞳で見つめていた。
「お前こそ。俺に付き合うことはなかっただろう」 「…別に。ヨハルヴァのためじゃないわ」 娘の手が剣に伸びた。抜き払った銘剣は曇りなく鈍い輝きを宿している。 「ヨハンがブリアンを殺しに行くの、私も見てられなかっただけ」 その言葉にヨハルヴァは痛々しいほどに奥歯を噛んだ。傍らの娘から視線を外し、挟撃を狙う敵兵を見据える。 「……あいつの考えてることは、昔も、今も、全然わからねえっ……!!」
ブリアンは、ヨハンとヨハルヴァの母を違える兄であった。見えることさえ稀ではあったが、それでもヨハルヴァにとっては血を分けた肉親である。神器スワンチカを携えた実兄の相手を、やはりヨハルヴァの兄であるヨハンは名乗り出たのである。 斧に対しては剣が勝る。 ましてドズルを疎むイザークの兵士が多い解放軍であるが、セリスはそれを認めたのであった。 「親父の時だってそうだ。なんだって、あいつは……」 ラクチェは僅か顔を傾けてヨハルヴァを見やった。辛そうな顔をしている。 仲が悪い兄弟。でもこんな時は、とても思いやっているのだ。 「だから」 つがえた矢が飛んだ。同時に滑るように駆け出すラクチェ。 「私が殺すと言ったのに」 セリスはそれには首を振り、ヨハンの言葉を受けたのだ。 私がブリアンを殺したなら、ヨハルヴァもヨハンも、私の手を取らなくなるだろうに。
ヨハルヴァは一人目を既に斬り倒したラクチェに、怒鳴るように叫んだ。 「もしも、お前に殺されても、俺はラクチェが好きだ!」 俺も兄貴も、辛いことはしなくていいよ、と自ら血に塗れようとする君が好きだ。
「……莫迦」
私はお前が血縁を殺せない理由なんてわからないのよ。 だから見える感情への、衝動に過ぎないのに。 (お前達を理解なんてしてない)
「ラクチェ!?」 本隊に合流した二人は、それぞれ分かれた。ラクチェは元々遊撃隊の役割が強くはあるが、セリスの護衛だ。双子の片方は常にセリスの傍につくのが常である。 背後よりの増援を制したラクチェは、だから一旦セリスの傍へと戻ろうとしていた。 「セリス様」 スカサハとレヴィンと共に現れた盟主は彼女の姿に血相を変える。 「手当ては!?」 ラクチェは怪我なんてしていない。訝しげに首を傾ける様子に、スカサハが小声でセリスを制した。 「全部、返り血です」 ぐ、とセリスは言葉に詰まる。彼の元に、既に彼女の戦果は上がってきている――。 衣服を黒く染めたラクチェは、軽く周囲を見渡しているだけだ。レヴィンが微かに眉を眇めて、スカサハを連れて他の戦況を見るべくその場を離れた。
「悪い夢でも見たのかい?」 二人だけになって、セリスが聞いた。彼女は未だ戦場にいるかのような透明な瞳を瞬いて、やがて小さく頷く。 「そう……」 セリスはそっと手を伸ばして、幾分か自分よりも背の低いラクチェの頭を引き寄せた。抵抗も無く引かれた温もりが近くなる。ほんの少し低い体温をもったラクチェは、今はまだ戦場の興奮で熱い。 もうじき一年を数えようとしている戦争で、セリスは一つ解ったことがある。
悪い夢を見た後、ラクチェは必ず常の倍近くの戦果をあげて戻ってくる。
乾いて黒ずんだ血に汚れた彼女は、真っ直ぐセリスの所にやってくる。微かに上気した頬で、少し微笑み。敵を殺してきました、と報告する。 悪夢を見た後、戦果が激減するセリスとはまるで正反対で、そんなラクチェがどこか不安定に感じてセリスは不安で堪らないのだ。
「……私も、今朝は悪夢だったよ」 「セリス様がですか?」 耳元を擽る声を聞きながらセリスは頷く。 「コノートの頃からね。……ユリウスに殺される夢をたまに見るんだ」 途端頭を抱え込まれていたラクチェが暴れだした。離してやると少し怒ったような顔で見上げてくる。 「セリス様は私がお守りしますから、そんなことはありません!」
ああ、好きだなあ。
セリスは剣を持たない時のラクチェが、とても好きだ。彼女が日常的に戦場に立つようになって、ようやっとそれに気がついた。 バーハラを制し、帝国の圧政を止めさせる。戦に荒れた国はやはり困窮するだろう。今はまだその先も見えないけれど、その時ラクチェが剣を置き、他愛もないことに笑う日がくるといい。そういう未来のことを考えるのが楽しい。 そういう明日の夢想をいくつも重ねて、セリスは進み続けているのだ。 (ラクチェはどうだろうか?) 彼女の夢見る明日はなんだろうか。
かつてティルナノグの優しい地で、身分も何もなかった頃。 きょうだい達で共に未来を話し合った。それは他愛もないものから壮大なものまで様々だ。 エーディン母上にも内緒で子供達だけ。シャナンがもう寝ろと怒ったら、布団を被って寝た振りをした。 世界一のアイスクリームに雲の上の国。故郷詣で。シャナンにぎゃふんと言わせる――。
セリスは脳裏をひやりとしたものが過ぎていくことに気がついた。 彼女の明日は、聞いたことがない。
「夢を、見ているそうです」
その男は椅子に深く腰掛けてスカサハを見やっていた。スカサハが、この世で最も苦手としている男である。 シレジアグリーンの髪が緩やかに纏められており、翡翠の目が一瞬金に変じたような気がした。 彼はラクチェの様子を見咎めて、スカサハに尋ねてきたのである。 足音ばかりが響く広間。二人しかいない空間は寒く、暗い暖炉が憎らしい。おそらくこの男は寒さを感じていないのだろうが。 それでも、この男にならスカサハは胸襟を開くことができた。 けして妹を連れ去ることのない、風になら呟いても許されるだろう。 「夢?」 「はい。あいつは自覚してないみたいですが、結構夢は見るほうなんです。最近は、それを、少し覚えているみたいで」 「どんな夢かは言っていたのか」 「いえ」 でも、と続け僅かに視線をあげる。 「でも、俺は、ラクチェの夢ならわかります」 彼女の見る世界がわかるように。男はその意味に少し瞳を眇めたが、追及する気はないようだった。 「双子の感応か。大部分は、錯覚だというがな」 「錯覚でも、解るんです」 男は肩を竦めて先を促した。スカサハは、少し躊躇うかのように視線を落とす。
「幸せな、夢です」 「幸せな?」 男は理解ができないように眉を潜めた。悪夢ではないのか、と言いたいのだろう。 「ラクチェは、それが怖いんだと思います」
「だから夢を見ている間、あいつは泣いてる」
私は夢をあまり見ない。見ても、直ぐに忘れてしまう。 ある朝目覚めた時、私の瞳は夢の残像を映していた。
少し大きくなった私。 その隣でよりそう男性。 私が支える小さなミルクの香り。 傍では暖炉が暖かに燃えて、常に傍らに置いていた剣はどこにもない。 夢の私は、幸せそうに笑っていた。 愛しそうに、微笑んでいた。 (はやく、わたしをおこして)
(ゆめをとめて)
残像が消えて、私は夢を忘れてしまう。 片時も離せない剣を持って。敵を、帝国を、私は殺しに行くの。 幸せな明日など私は願わず。
それは怖い夢で、忘れてよかった。
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