誰より恋しい人 誰より好きな人
この想いはどうやって 伝えたらいいでしょう
貴方にアイを伝えたい
「ディアドラ」 ディアドラは一人、床の上に座っていた。へたりこんでいたと言ったほうが近い。 冷たい床に体温を奪われて急速に体が冷え込んでいく。 ほんの少し前まで、その体はずっと感じなかった熱にひたされていたのではなかったのか。 ディアドラは自らの肩を抱いた。ほら、まだ熱いじゃないか。 たまらなく求めてた瞬間が、先ほどまで自分を包んでいたじゃないか。 「ディアドラ」 力の抜けた足は満足に動きはせず、ほんの少しでも力をこめたら壊れて崩れてしまいそうだった。 どうして、と呟いた。
何故わたしは、忘れてしまったのでしょう。 何故わたしは、あなたの横にいなかったのでしょう。 あなたがいないわたしなんて、考えることも出来なくなっていたのに。 ずっとずっとずっと 出会うたびに恋をしたのに。
「シグルド様」
アルヴィスが腕をとった。急速に失せていく熱はディアドラの意識を根こそぎ奪い闇の中へと放り出す。 この手じゃない、と感じた。 いつも優しく自分に触れていた手に腕をとられて、どうして。とディアドラは繰り返した。 わたしに触れているのは、どうしてつい先ほど傷を癒した人の手なのだろう。 あいしてると言ってくれた人は何故触れてくれないのだろう。 「ディアドラ」
あんなに恋したのに。 あんなに求めたのに。 こんなに辛い、思い出となりはてる。
アルヴィスはディアドラを抱いてその場を後にした。その姿をひっそりと影に潜んでいたマンフロイは満足げに見ていた。 さぁ、風の王子を迎える準備をしなくては。とマンフロイはくくっと笑った。
「愛していると、言ってくれないか」 アルヴィスがこう告げる度にディアドラは首を傾げた。それから「どうしたんですか、アルヴィス様」と尋ねる。 そう答えられる度に、それ以上の追求はしなかった。 それでも、また度々アルヴィスはディアドラに頼んだ。こう言ってくれないか、と。 ディアドラは一度も言わなかった。
ユリウスとユリアが生まれ、ディアドラはアルヴィスと穏やかな時間を過ごした。 常に幸せそうな微笑みを浮かべ、二人の子供をいつくしみ、アルヴィスを慕った。
夜、二人になったときはディアドラは常の微笑みを忘れたかのようだった。自失の表情のまま、なんの反応も示さない。 アルヴィスはそんなディアドラを腕に抱いて眠る。 抱きしめると、ディアドラは幼子のようにすりついてきた。頼られているような気がしてまた愛しく思った。 でもその微笑みが見られないのが寂しくて、アルヴィスは夜にはよくディアドラに話し掛けた。 その日のちょっとしたこと。ユリアが魔法を使えたこと。裏の花畑の話。今日の天気。たまには弟の話さえもした。
「ディアドラ、聞こえているかい?」 聞いているのはわかっていた。次の日になって、ディアドラはアルヴィスのした話を覚えているからだ。ちょっとした失敗談などにおかしそうに微笑んでいた。 「ディアドラ……頼みがあるんだ」 アルヴィスがせつなげに紡いだ言葉にも、ディアドラは反応をみせなかった。 でも、この言葉なら。 この言葉なら、いつも問い掛けた時のように、どうしたのかと話してくれるだろうか。 あまり嬉しい言葉ではなかったけれど、自分の名を話して欲しかった。 「……愛してると、言ってくれないか」 ディアドラが反応を見せた。目をしばたいて、おずおずと口を開くのが見えた。 アルヴィスは予想しなかった反応に表情をほころばせて、ディアドラの言葉を待っていた。
「シグルド様」
背筋が凍った。 ディアドラはとても愛しそうな表情で何度も繰り返した。しぐるどさま。
どうして今更。 昼のディアドラは、シグルドのことは欠片も覚えていない様子だった。あの時の人は悪くなかったのでは、と他人を指すように言うことはあったがそれだけだった。 自分が顔を固くするから、いつしかそれも言わなくなった。 「どうしてだ、ディアドラ。……君を愛しているのは私なんだ」 ディアドラは変わらず繰り返した。 「その名を呼ぶな、お願いだ」 ディアドラは不思議そうに言葉をとぎらせる。
「私の名を呼んでくれ……!」
ディアドラはもう、何も言わなかった。
天気のいい日のことだった。 あと一週間後に皇子と皇女の10歳の誕生日を迎えてアルヴィスは多忙な日々を送っていた。 二人への贈り物を編み終えた後、ディアドラは一人端整に世話のされた庭を散策して歩いていた。 美しい花園。目に写し取るかのようにゆったりと見て回る。途中、遅れてはいけないと思って足を速めた。 約束をしているわけではなかったが、あくまでも出くわさねばならなかったのだ。 深い緑の園で、柔らかに吹き抜ける風を感じてディアドラは立ち止まった。 風に揺らいだ翡翠の髪が落ち着いた先に見知った存在を感じてディアドラは微笑んだ。 「レヴィン様、お久しぶりです」 「ああ。シグルドが……亡くなって以来か。俺も、バーハラであんたの姿を見たからな」 しばらく聞いていなかったぞんざいな口調にディアドラは少し懐かしくなった。シグルド、と話す人はずっと周りにはいなくなっていたのだ。 恋しい人を思い出して、ディアドラは嬉しくなった。昔の気分だ。 「はい。……シグルド様の横に、レヴィン様はいらっしゃいましたね」 シグルド、と呟いたときディアドラが意外に可愛く微笑んだので、レヴィンは一瞬違和感を感じた。年に合わない。でも酷く似つかわしいのだった。 ああ確か。 シグルドの横にいたディアドラは、いつでもこんな笑い方をしていたのだ。
一週間後にバーハラに来て欲しいと告げると、レヴィンは頷いて消えた。 微かに残るフォルセティの残像にとられそうになった髪を引き戻す。 (わたしは、あなたのような道は選べません、レヴィン様) 久方ぶりに呟いたシグルドの名は、ディアドラを幸せな気分にさせる。 一週間後を憂いながらも、幸せに浸っていたディアドラを、アルヴィスはじっと窓越しに見つめていた。
私は君の笑顔を守りたかった。 君に笑いかけて欲しかった。 けれど、今まで気が付かなかったんだ。
私は、一度も君の笑顔を見たことがないと。
その日の晩、アルヴィスはいつもよりより一層強くディアドラを抱きしめた。 いなくなってしまいそうだったのだ。 「愛してる、ディアドラ」 ディアドラの体温を逃すまいと、何度も何度も囁いた。 「あいしてる、あいしてる、あいしてる……愛していると、言ってくれ」 ディアドラは、いつものように答えた。 「シグルド様」
ディアドラは、一度も夜に自分の名を呼びはしなかった。何年間も、ずっとそれに気がつかなかった。気が付きたくなかったのだ。 あれはいつだっただろう。いつものように何も言わないディアドラを抱きしめて。 「シグルドには、言うのだろう」 あれが最後だった。ディアドラの前でシグルドの名を呼ぶのは。 言わないようにしていた。でも言わずにいられなかったのだ。きっとシグルドには愛していますと言ったのだろうと。 彼女は、一言だけ呟いた。誰かの名ではなかった。 一言だけ「いいえ」と呟いた。 シグルドにも愛してるとは言わないのだと、言った事がないのだと。 それ以来、ディアドラに「愛」の言葉を頼むのをやめた。そういうひとなのだ。 誰にも「愛」を囁いたことがない人なのだと。
誰にも愛を告げない彼女は、今日も シグルド様、と呼んでいる。
彼女はアイの伝え方を、それだけしか知らなかったのだ。
シグルド様 シグルド様 ――シグルド様
シグルド様が「あいしてる」と言ってくださるのがとても好き。 恋しい想いが伝わるから。
出会うたびに好きになる。 全身であのひとが恋しい。
「シグルド様」
だから今日も、あなたにアイを伝えたい
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