その存在は、あまりに近くに在り過ぎた
声が聴こえるのが当然であり それを疑問とも思わない
いつしかそれを他人に伝えることもしなくなった 異質な目で見られるからだ
尊敬する父 憧れの王女 たくさんの弟達
彼等にその「目」を向けられるのが恐ろしく……
また、その声に価値を抱かなかったから
しるべ 光の導
ケルベスの門、と呼ばれる地がある。 かつてはマンスターとトラキアとを分ける国境だった砦だ。難攻不落と歌われた砦で、上空を行くトラキア軍を阻むことはできなくとも、明け渡したことはついぞない。 故に、砦の南に位置する村にとっては元々敵の砦である。 だが北トラキアが帝国に占拠され、トラキアが帝国と同盟を結んでからはその恐れも無く、ぽつぽつと村も出来ていったのであった。 だが……。
「コープル様、本当に申し訳ありません……」 肩を落としてそう言う老人に、コープルは開いていた窓を閉じた。木の板で作られた窓はぱたり、と軽い音を立てて閉じる。 「いいえ。あなたがたのせいではないんです。気にやまないで下さい」 目に明るい金色の髪を揺らして少年は首を振った。どことなく高貴な色を宿した少年だった。
トラキアの盾と歌われる名将ハンニバルの息子であった。ハンニバルの大勢の息子のうち、彼が長男ということになる。 ハンニバルは長年国境を守り、この付近の民には特に尊敬が篤い。その彼に従って最近国境の村々を回っているコープルは、そのためよく知られていた。 穏やかな話し振りも、年に見合わぬ落ち着きも民の期待を受けるには充分であったし、なにより優しかったためだ。 金の髪も翠の瞳も、どれも父親であるハンニバルには似ても似つかなかったがそれを気にする者はいない。ハンニバルが伴侶を持たず養子をとっているのは周知の事実であったからだ。 コープルを始めとして、孤児を引き取るようになったので彼が長男なのであった。
「近隣の者も……皆、不安がっております」 表情を曇らせた老人に対し、コープルが微笑みかけるように言った。 「帝国の所業は、父……そしてトラバント陛下にしっかりと伝えます。連れ去られた子供たちも、すぐに戻ってこれますよ」
気休めだった。
コープルも、信じてはいなかった。 だが世長けた老人は孫ほどに年下のコープルの言に安心したような顔を見せたので、コープルはそれで済ませた。 この場所には、父が援助している孤児院があったのだ。既に以前の国境も割れ、帝国が侵食していた領地は、容易にハンニバルの見回りを許す状況になかった。 国境線は曖昧で、ケルベスを越えなければよく、ミーズを越えなければ良かったのだ。丁度干渉区域である。 そこにあった孤児院は、既に子供は一人もいない。 シャルローがいた孤児院であったらしいが、懐かしい顔は残ってはいないだろう。もちろん普通に孤児院を出て働くようになった者もいただろうが。 だが、そうでないものもいる。 砦に連れ去られたのである。 ケルベスの門は、再びトラキアの恐怖となりつつあった。
「でも、これで現状を知ることが出来ました。僕は直ぐに父に知らせようと思います」 コープルはハンニバルの代わりに国境へと様子を見にきていたのだが、思ったよりも進行は早い。 予定より早いが直ぐに発たなくては、と思って席をたったコープルはだが足を止めた。 「コープル様、直ぐに準備を……」 「静かに」 疑問の瞳を向けてくる老人に構わず、コープルは目を閉じた。
「馬の音……帝国兵が……」 コープルは微かに木窓を開けた。当然空気を震わせて音が届いたわけではない。 「何ですと!?」 老人はことさら静かに窓に寄った。目を閉じる。 程なく顔を青くして老人は窓を閉じた。 「コープル様、直ぐに身をお隠し下さい。獣めがやってきたようです」 昔兵士であったという老人は、厳しい顔をしてそう告げた。 静かに首を振るコープル。
「間に合いません」
父は、ハンニバルという名の養父は神に祈らない人だった。嘆きもしない人だった。
母によく似ているという翠の瞳。それを覗き込んで涙を流す父さん。 僕は似ている、と言われて嬉しくは無かった。むしろしばらく嫌悪してもおかしくない。 でも、不思議とそんな気にはならなかったのだ。 何度も何度もあの人が綺麗な瞳だと言うから。 父さんの目は僕よりずっと綺麗で、温かい茶色の瞳。 とても優しい目だ。
「とうさん、どうして泣くんですか?」 父と呼んでいいのだと言うから、呼びなれない名を呼ぶ。 唐突に感じた気恥ずかしさと、理由のわからない喜び。 父さんの涙は一層溢れて、枯れた頬を伝った。 世界で一番強いのだと信じた彼の涙を見たのは、それが最初で最後だった。 泣かないで、と涙を拭ったのだ。 何度も。
泣きつづける子供。 その姿はまるでトラキアの現状を示しているような気に陥ってよくない。 実年齢よりも少し幼い姿が災いしたのか、コープルは今ケルベスの門の中にいた。 引き離されることに泣き叫ばないコープルの姿に、兵士達はやや違和感を覚えたようだったが。 「大丈夫だよ」 子供の泣き声の横にいるのが苦痛で、コープルは落ち着いた声でそう呼びかけた。 一気に意識が集中し、その中には理不尽な怒りも感じたが気にせずコープルは言葉を続けた。 「聖戦士様が、助けにきてくれる」 それはトラキアの王トラバントを意識して言われたものだったが、意外な反響をもたらした。 「りーふ王子かな?」 コープルは目を見開いた。彼等はトラキアの民だった。 「そうだね。だって兵隊たちはていこくなんでしょう?そうしたら、りーふ王子が来てくれるのよ」 子供たちが口々とそうだそうだと続けた。コープルは何もいわなかった。 直に話が収まったので、拙い神話の話をする。すぐに子供たちは静かになった。既に恐怖が収まっていたからだ。
”リーフ王子”は、生死も定かではないレンスターの王子だ。亡国の、と言って差し支えが無い。 北トラキアで帝国の手から逃れて逃避行を続けているという噂で、北トラキアではその名を出せば万の兵が行方を捜すという。 国境付近であるこの辺りは北に近い。その噂が出回っていてもおかしくはないのかもしれなかった。 帝国はトラキアの民にとって味方ではなく、国境に近づくほど意識は敵に近くなる。 ”リーフ王子”は帝国の敵で、帝国に対する者達の味方だ。 取るに足らない夢物語だが年の若い者になるほど深く根付いている。北にレンスターの脅威があった時代を知らないために。
まるで神に祈ることに似ている、とコープルは思う。 助けてくれる訳でもないのに。 知り合いでさえないのに。
「兄さん、今日の礼拝にはこなかったんですね。どこかお身体の調子でも?」 後方から呼びかけてきたのは弟だった。 深い藍の髪をして、手には大事そうに聖書を抱えている。 トラキアでもエッダ教は根強い。朝の礼拝に参加する者は意外、といえるほど多かった。 常に戦場にいく身だからか、それとも別に理由があるのかはコープルには興味が無いが。 「明日からまた外に出るから……まだ、仕度が終ってなかったんだ」 シャルローはなるほど、と頷いた。 「気をつけてくださいね、兄さん」
遠ざかっていく弟を、コープルはしばし眺めていた。 シャルローは神を信じている。 聴こえないのに。 なのに、何故信じることができるのか。
コープルは礼拝堂を訪れた。静かだった。誰もいない。 (コープル) トラキアでは高価であるステンドガラスは使われてはいない。彫りこまれた彫刻はそれでも素晴らしかった。 聖壇に立てられた古ぼけた杖に手を伸ばす。 淡く滲んだ。 コープルは少し俯いてその場を後にした。 聖杖は、静かに佇んでいる。煩く騒ぎ立ててはいたが。 (コープル) 立ち去る足を速めた。聴こえないように、早く。
(うるさい)
コープルは、神に祈ることをやめた。
遠くに剣戟を聞いて、コープルは神話を話す事をやめた。子供たちも、息をつめるようにして耳を澄ませていた。 誰と誰が戦っているのか。 コープルは、それをトラキアの軍勢かと思った。ハンニバルの息子が捕われたとなれば、威信にかけ動くこともあるかもしれないとおもったのだ。 だがそれは直ぐに否定した。 なにより、そのように自分が扱われることが嫌だった。
子供のうちひとりが「神様」と呟いた。目を閉じて、祈っている。 コープルは遠い気分がしてそれを聞いた。
コープルにとって、神の声は常に身近にあるものだった。近すぎた。 祈ることはする。常に見守っているらしいから。 だが、何もしてはくれないのだ。それでは、何故祈るのだろう。 ハンニバルに引き取られてしばらく、祈ることもやめてしまった。ハンニバルが礼拝で祈らないからだ。 偉大なる父は、常に祈る時はトラキアの大地に祈っている。 コープルもそれに倣った。
もとより、信じることが出来ないのだ。今更祈りつづけて何になるだろう。
神に祈るシャルロー。 聴こえもしないのに。 それが酷く滑稽で、純粋さに憧れる。
唐突に、近づいた剣戟が止む。 コープルも含め、子供たちは息をつめて固まっていた。 ガキッという音がして、不慣れな様子で鍵がなる。 そうして、ぎぃ・・・と扉が開いて。
見えたのは、光。
・・・血が揺れた。
「大丈夫かい?」 白銀の鎧に身を纏った少年は、大きな瞳を開けてそう言った。 声変わりを終えているはずなのに、やや高めの、澄んだ声。 こんな光は気のせいだ。急に、扉が開いたせい。 だが目の前の光は、笑顔になってぱあっと柔らかくなった。 「怪我は無いみたいだね……おいで。家まで送ってあげるよ」 少女の一人が、おそるおそる、といった様子で尋ねた。 「……りーふ王子様?」 少年は面食らったように目を見開いて、そして悪戯っぽく片目を閉じた。
「内緒だよ」
きらっと光が瞬くので、コープルも子供たちも、ふわふわと気分が昂揚してしまう。 確かそれほど年が変わるわけでもないのに、コープルは目の前にヒーローを見ているような気になってしまった。 近くて、それでも届かなくて。光一杯に輝く。
ふと気がつく。コープルの神も、そんなものだったのだ。 いつでも傍にいたのに、その存在は希薄。何もしてはくれないのに、何かしてくれと祈らずにはいられなかった。 何度も何度も失望して、それでも疑うことを知らない。 目の前のリーフも、そんな存在だった。
信じていいではないか。
その声はあまりに近すぎて、信じることが出来なかった。 その声はあまりに親しみすぎて、高きものと思えなかった。
だが近くで見守っている神が。 一段下で眺めている神が。
己の神でも、いいだろう。
そうして始めて、神の光が見えたのだ。
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