暗い部屋だったと思う

私よりもずっと長身の男は、月灯りの下小さく微笑んでいた
逆光で私が見えないはずの彼が、迷いなく私の手を拾う
柔らかに手の甲に押し付けられた唇は、薄くて少し冷たい


「お前は、唇にキスはしないのね」
「君がされたくないと思っているから」


男は笑みを深めると、でも、と続けた

「こうして手と手を触れ合わせることのほうが、君はよほど好きだろう」





百の口付けに一の愛すら





(リーンの声だ)
 夕暮れだっただろうか。闘技場から出て剣を研ぎに出し、予備刀を引っさげて裏庭を歩いていた。
 アルスターはイザークの城とは全く違う。肥沃な大地に、典雅な庭。城の造りから違うのだから当然だったが、ラクチェは異邦に紛れ込んだ気分で探検をしていたのだった。
 ダーナで加わった踊り子。ラクチェは踊りに慰めなど求めていないし、この戦が終るまで慰められたくもない。けれど、リーンの踊りは好きだった。活き活きと動く手足は、ラクチェが全く知らない身体の動かし方だ。
 くるくると回るような足取りに、表情豊かなリーン。そうやって、守ろうと思う人が減っていくのではなく増えていくのは心地よいものだった。
 リーンの声は高く響く。声音は誰かと話しているようだったけれど、会話の相手はわからなかった。特にそちらへ向かっているわけでもなかったが、進行方向から聞こえてくる。
 歩を進めていくうちに、誰かが解った。アレスだ。
 セリスの命を狙っている男。
 ラクチェの瞳には僅かに険が昇ったが、セリスの言があるので手は出さない。彼女は早々とこの場を通り過ぎてしまおうと足を速めた。


 リーンの、明るい声が途切れた。
 自然その声が途切れた先を追ったラクチェの視線は、そこで優しい口付けを交わす恋人達を見ることになった。夕暮れの赤い焼けの中、宗教画のように時が止まっているように思う。リーンのくるくると動いていた唇を塞いだアレスはそっとリーンを解放すると、二人穏やかに微笑み合う。
 とても、幸せそうに感じた。


(ラクチェは愕然とした)

 彼女は動揺するのを振り切り、早足で駆け去った。
 乱れた足並みに訝しげにリーンとアレスが視線を送るが、随一の素早さを誇るラクチェの背中が二人の目に映ることはなく、また、彼らは直ぐに意識から消してしまった。











「ラクチェ」
 呼び止める声にラクチェは足を留めた。聞き覚えた声、流れる黒髪に数拍慌てて髪を梳かす。年上の従兄はその様子に目を細めると、再度彼女の名を呼んだ。
「ラクチェ、部屋に戻るところか」
「はい、シャナン様」
 そうか、と続け、シャナンはこれからコノートへと向かう先遣隊に参加するのだと告げた。
 イードから戻ったシャナンは直後のメルゲン・ダーナ・アルスター戦には参加していない。その分精力的に動こうとしているのだろう。レンスターから戻ったばかりのセリスは、リーフが既にマンスター解放へと動いていることを告げていた。セリス軍も構成を整えなおし、コノートへ向かうことが必要とされている。
「少し早いが」
 シャナンは一言前置きをして、ラクチェの瞼の上に口付けを落とした。
「おやすみ。食事をとって汗を流した後は、早く休めよ」
 常のようにそう囁いて離れると、シャナンは常と違う様子に気がついた。ラクチェの深い紫の瞳が、じっとシャナンを見つめている。そこに甘い色は一切ないが、どこか、戸惑うような視線だった。
 何か、彼女が驚くことなどしただろうか。シャナンは自問し、微かに感情が揺らめいた。


 それとも、まさか、気がついたとか?

 シャナンは仰け反り、片目を覆うと動揺を隠す。目の前の小さな従妹は何度か瞳を瞬くと、何時も通りに思えた。だが、常通りだということに責められる思いがして男は何度か瞬きを繰り返す。
「また」
 喉の奥が乾くのをやり過ごし、年下の従妹が透明な視線を送るのをシャナンは受け止めた。
「また合流するのをお待ちしてます、シャナン様」
「――ああ。お前も気をつけろ」
 彼女が生まれる時から知っている。こんな感情は擬制だ。憧れの行き場のないものであり、彼女を愚弄するものだ。シャナンは呪文のように唱えると、冷静さを取り戻した。
 年下の従妹の視線は酩酊をシャナンに覚えさせる。
「いってらっしゃいませ、シャナン様」
 黒髪が風にのってそよぎ、二人の間には空白が出来た。少女は口付けの落とされた左目を瞬いたが、何か変わったようにも思えなかったので踵を返して部屋に戻った。











「ラクチェ」
 湯浴みを終えて、部屋に戻る時に呼び止められた。冷たい廊下が温まった身体を冷やそうとしてくるが、呼び止めた相手はそれに頓着した様子もない。
「なに、ヨハルヴァ」
 静かな紫の瞳に映って、ヨハルヴァは小さく奥歯を噛み締めた。
 彼が恋焦がれる少女は、見目もそうだが、その佇まいが美しい。細い腕も白い肌も、透明な視線も刃のようだ。戦場でなければ静かに凪いでいる瞳は、今は黙ってヨハルヴァを見上げている。
「――の所に、いくのか」
 ラクチェは彼の言葉に瞑目したが、やがて一つ頷いた。躊躇いのない様子に眩暈がする。いっそ、殺してしまいたいくらいに好きな女だが、ヨハルヴァには彼女を殺すことなどできはしない。それほど好きでも、生きていて、動いて、刃を振るう姿にこそ惚れている。
 ヨハルヴァは息を詰まらせ、彼女の方へ一歩踏み出した。ラクチェはそれでずれた視線を直すのに、少し見上げただけだ。


 背後の壁に手をついて。
 紫の瞳に溺れそうになりながら。
 開かれない唇に、音無く口付けて。


「……なあ、どうして、何も言わないんだ……っ」

 初めてキスした時もそうだったよ、とヨハルヴァは涙を浮かせて叫んだ。ひっぱたかれるのを覚悟していた。拳で来たって本望で、怒りの分ラクチェの思考を埋めてしまいたいと思ったのに。
 彼女は好きだと告げたその時よりも、ずっと揺らぎのない目線でそれを見送って、静かに見つめ返すだけなのだ。
 ラクチェの瞳の色は凪いだままで、キスを許されているなんて錯覚できない。口付けの甘さに酔えず、彼女の心がそこにないということを実感するばかりだ。
 娘は、唇に人差し指をもってくると思案した。常よりも、やや戸惑いが見えたけれど、看破できるほどの余裕はない。
 触れた場所を確かめるだけの、乾いた手つき。


「ヨハルヴァ、私は」

 静かな声音に、ヨハルヴァははっとしたように見つめ返した。

「キスに、意味があると思えないわ」

 彼女は少し瞳を伏せると、軽い音を立てて彼の前を去っていく。
 ヨハルヴァは唇を噛み締めそうになった代わりに、人差し指を噛んだ。
 彼女が看過しやしない口付けに、こんなにも支配されているのは自分だった。





















 そこは、暗い部屋だった。
 月明かりの下で、君がとても綺麗だから。と言う男の意向だ。
 ラクチェは就寝までのまどろみをその男の横で過ごし、眠くなれば部屋に戻る。
 いつから始まったのかは、忘れてしまった。


「アレスとリーンは、とても幸せそうだったわ」
 彼女は口付けに込められた幸福に、惑いながら告げた。彼らの口付けとは、己が知るどんな口付けとも違うのではないか、と思ったのだ。
 ラクチェには、シャナンの瞳の意味がわからない。ヨハルヴァの熱情が伝わらない。キスの温度を、彼女は知らない。瞳に映る恋情に、戸惑いを感じた。そんなものが、口付けにはあったのか。
 彼女は唇をなぞった。ただ、触れただけだ。
 どうしてそれに、意味を求めるのだろう。


 困惑したラクチェに微笑みかけると、男は彼女の手を恭しくとり、手の甲に唇を押し付けた。
「お前は、唇にキスをしようとは思わないの?」
 その辺りの娘であれば、それはいささか積極が過ぎる告白であったが、男は柔らかい微笑みを浮かべたままで丁寧に質問に答えた。
「一方通行の愛情表現は、知らない言葉の恋文のようなものさ」
 百の口付けを繰り返しても、彼女には一の愛すら伝わらない。


「私とのキスに、君が星を見つけるのを待つことにするよ」

 ラクチェは眉を寄せた。
「お前の言っていることは、やはりよくわからない」
「困ったな。それでは私の想いも伝わらない恋文かな」
 全く困っていない様子で男は笑い、手にしていたラクチェの手のひらに、そっと指先を絡めた。斧使いによく見られる、大きくて、少しごつごつした手だ。口から浮かぶ美辞麗句は、手のひらまでには浸透していない。
 手のひらに伝わる体温に、ラクチェがほのかに頬を染めた。
 繋いだ手をそのままに、小さく膝を抱える。子供のような動作に男は笑みを深めた。
 少し強められた手に感じる、心底愛しいと伝えることば。


「でも、こうして手を繋ぐと君にも伝わってくれるから、私の愛は伝わるだろう?」

 毎日手を繋いで、一つずつ愛を伝えていくよ。





 ヨハンの言葉は、どんなに慣れても恥ずかしい。

 ラクチェは頬を染めると瞳を閉じて、手のひらに伝わるヨハンの愛だけ想うことにした。
















(05/08/22)