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彼の人はいつでも柵の向こうにいる人だった 丘を走った、木陰に眠る精霊の申し子 あの瞳を覗こうと毎日のように駆けた日々
既に己はあおに繋がれて どうにもならぬ絆に気がついてからも
君への憎しみ 君への憧憬 見上げるだけの果てしない慟哭を
抱えて、今日も生きてきた
空をみるひと
「宰相をこれ以上お近付けになるのはお止めください」 打とうとした扉を止めたその言葉に、長身の青年は目を細めた。
北国シレジア、今は短い夏である。この僅かな月日に緑は急いでその手を伸ばし、民たちはせっせと農作業を行なう。 よって、シレジア王宮が忙しなさから解放される時はありえない。 冬はその寒気を運ぶ冬将軍の猛威を防ぎ、春はその雪解けによる川を気にし夏は封じられた農地を整え秋には祭りに騒ぐ民を平らかにする。 だからこそ、この手に抱えた書類は重要なものだった。
「お前も懲りないな」 穏やかに返された言葉に声の主は溜息をついたようだった。何度言えばわかってくれるかと辛抱強く美しい佳人に話し掛けている。 扉の外の青年は、無表情でそれを聞いていた。厚い王宮の扉はそれでもジルフェを操る青年にとっては音を響かせる。 「陛下、戦友であられる宰相を重用なさる御心は解りますが、何度も申しましたように宰相はフュリー様の子息にございます」 瞳が冷たさを増した。姿の見えない主を見ようとすがめられる。見えるはずはないのだが。 「先王の第一のお妃候補であったフュリー様の御子でございます。戦の終った今、お近付けになるのは賛成できません!」 咄嗟にその手を動かした。ノックの形で静止していた拳が硬質な音を立てて、中の声が止まる。 唇を僅かに歪めてセティは言葉を吐いた。
「宰相セティ、参りました」
はいれ、という声の後扉を押し開ける。重圧な扉。 開けられた向こうには苦々しい顔を拭えない青年が一人と、柔らかく微笑んだ唯一の主とがいた。
「麦は、例年よりも実りがよさそうだな」 一枚ずつ用紙をめくりながらのその言葉にセティは囚われていた意識を戻した。 冷静と業務を報告していく口とは裏腹に、思考は果てしなく回る。 セティは、新生シレジア王国における第一の家臣だった。旧王家に仕えた名門の天馬騎士の息子であり、ユグドラルを揺るがした聖戦において王の傍にその身を置いた。シレジア奪還においても重要な位置を占めた、王妃の兄でもある。 故に当然のようにその地位は高く、宰相という人身位の高みについている。 そして、それは王の信頼と家臣の嫉みとの紙一重の位置でもあった。 そんなことは知っているし、また跳ね除ける力も有している。
「あいつは、さ」 ふと生じた知らぬ言葉にセティは顔をあげた。王がこちらを見ている。 「悪気はないんだよ」 囁くように述べてまた新しい書類をめくった。 「誰のことでございましょう」 「はぐらかさずともいい。聞いていたろう」 断定された事実に、だがセティは頷く訳にもいかず沈黙を呈した。 「あれはあれなりに、シレジアを思っているんだ」
甘すぎるその言葉にセティは舌打ちを隠せない。 結局いつもそういう無意味な信頼が国を揺るがせいつしか混乱へと導くのだ。 だからこそ臣下が目を光らせるべきだ、とセティは思う。 王が臣下の愚かさを見破らないのは罪ではない。愚かな臣下が罪なのだ。 天よりの恩寵を授かり、王は民を愛し、臣下を愛し、国を愛する。 民を憎まぬ王がセティにとって理想の王であり、また目の前の王はその意味で理想足りえた。
だからこそ、あれは遠ざけねばとも思う。 あの青年がセティを王から遠ざけようとする理由が、セティにはとんと思いつかない。一体何がそんなに心配なのだという。 それは位を極めるセティへの嫉みがあるに他ならず、シレジアを思うあらばそんな理解不能な事を誰がしよう。
セティは、シレジアこそ最上なのだから。
亡きダッカーの唯一人の息子に対し、セティの意識は冷たい。 その父は、シレジアに対し弓を引いた者であった。 愚かにも大母ラーナへと反旗を翻し、レヴィンの王位を脅かさんとした者だった。 内乱さえなくば、現国王はシレジアを逃れることなどなかったろうに。 寒気厳しい北シレジアで、御身を痛めることもなく……。
「セティ?」 いつのまにか書類は終っていたらしい。はっと気がついたセティは僅かに狼狽した。 思っていたよりも遥かに気が行っていたらしく、目の前では王が不思議そうな顔で眺めている。 深い翡翠と視線を合わせることが出来ずにセティは眼を落とした。 「セティ、少し付き合え」 「はい?」 瞳をあげると、そこには硬い王座から解放された王が立っている。雪のような銀の髪がさらりと舞った。 「肯定したな?」 それは違う、と思うが言葉だけとればそうであった。 「じゃあ、行こう」 反論できない声音にせめて外衣を、と思ったが、人を呼ぼうとする前に主は影から軽そうな毛皮を取り出した。 常習か、と苦味を感じながらも、何故か寂しさが募ったのは。
……多分、今が夏だから。
楽しげに大地を踏みしめて歩く王の姿を、後ろから追いながらセティは思う。とても緑が似合わない人だ。 短い夏をいっぱいに伸びる緑に囲まれて、王はどこまでも馴染まなかった。 無造作に草むらに座り込んだときも、話し掛ける言葉さえ知らずにそんなことを考えていた。 本当はもっと別に言わなくてはならないことがある。しかしセティは魅入られたようにその考えから離れることが出来ない。 きっと、ここが外だからだ。 石造りで、防寒のためにタペストリーを何重にもと敷いている城内ならば、このようなこと考えはしないのに。
ごろん、と王が横たわったことで、ようやくセティは自分のするべきことを思い出した。 同時に、その顔が目に入る。 頬に刻まれた聖痕はまるで罪状のようでセティは好きではない。 「陛下……お止めください。体温が奪われます」 セティの文句に、王はくすくすと笑った。 「お前もそれを言う。……やっぱり兄妹だな。フィーもよく言うんだ」 妹の名前にセティは若干戸惑った。それを見て取ったのか、追うように言葉が続く。 「お前がフィーの兄でなくとも、宰相はかわりないよ」 優秀な奴がやればいいんだから、と微笑んだ。 「……身に余るお言葉です」 セティの主は、面白そうに笑って、起き上がろうとはしなかった。
風がざわざわと吹いて草原を揺らす。 傍では大木がその腕を震わせていた。 夏特有のたちのぼる雲が、鮮烈な青い空を飾っていた。 太陽は既に天中になく、ここちよい時間となっている。 王は、ずっと横たわったまま空をみていた。 あの空の向こうに理想郷があるのだ、とでも言うかのように。
「綺麗だなぁ」 吐息と共に囁かれて、セティは思わず空を見上げた。抜けるような青空は、シレジアでは夏にしかみることができない。 「あ、あのへん。なんかちょっと似てないか?」 穏やかに横になっていた人が勢いよく言った。指差す方向を見てみたが、何をいっているのだかわからない。 「あのふくふくしてるのがほっぺたで、凪いだ上部が柔らかい髪の毛で、それから……」 「……王子のことですか?」 漂っていた小さな雲を仰いでセティは呟いた。当然、当たり前だと怒られた。
一転して夢中になった主の姿にセティは嘆息する。 「陛下は、王子にすっかりお心を奪われているご様子」 王子は、まだ生まれたばかりの赤子であった。髪も瞳も母似で淡い緑色をしている。この王は、一日に一度は幼い王子を訪れて幸せそうな顔をしている。 「そうだよ」 僅かに皮肉を秘めていたのだが、てらいなく頷いて微笑まれた。
「何度だって大好きだって言ってあげたい。大きくなっても覚えているように」 「……陛下?」 「今すぐ未来に飛べたなら、言えるのにな」 「陛下」 「お前は俺の宝物だよ……って」 「アーサー!」 何故か感じた焦りに、アーサーは微笑みしか見せなかった。
「聖痕が出たんだ、兄さん」 はっとしたようにセティは目を見張った。王子はまだ一歳にもならない。それでも、聖痕が出れば王太子につくのは確定だ。 アーサーは撫でるように己の聖痕に触れた。頬に刻まれた継承者の証だ。 「父さんは、いつまでも浮かばなくて……それが内乱の兆しになったんだっけ」 丁度ダッカーの第一子が生まれたころだった。ダッカーは一度も自分の子を奉り上げようとはしなかったし、娘でなかったことに大変がっかりしたという。 「あの子は内乱の恐れはないのだから、その分ゆっくり生きていけば良かったのに」 アーサーの聖痕は、生まれてきたときから存在した。 知らない頃から存在した痕が、アーサーを常になにものかと教える証だった。
「兄さん」 もう一度呼ばれて、セティはアーサーを見つめた。深い翡翠は、風の色だった。
見上げてくるのは終わりなど知らない。 目眩を覚えるような深さ。 真っ直ぐ見つめてくるその顔には微笑みは無い。 せめて笑っていたならば良かった。 アーサーの笑わない顔が、いつでもセティに裏切れなくさせるのだ。
既にセティはあおに繋がれて。 どうしようもなく戻れない場所に立っている。
唐突に気がついた。 あの男さえ、裏切るわけはないのだ。 死は時に人を裏切らせるけれど。 変わらず永遠の鎖であるから。
「……を、頼む」
なんと言ったのかは風に攫われて。 それでも聞き返さずに頷いた。
「もう、兄さんとは呼ばない」
春だった。 シレジア全土を覆う雪は溶けて、急速に緑が芽吹く。 セティは、春になると出向く所がある。どんなに忙しくとも欠かしたことは無い。
あの人は、シレジアが目覚める時が好きだったから。
雪のような銀糸の髪。 風を見ると翡翠の覗く瞳。 透けるような白い肌。 さみしがりの人。
そらにとけた、一人の少年に逢いに。
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