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知らないほうがいい、ということはある 己とて知らなければ幸せかもしれない (いやそんなことはない) 少なくとも己は知っていて そして彼らは知らない
知らないほうがいい、ということはある
知らない娘
「父さん」 メルゲンの城。囁くように呼びかけられてレヴィンは振り向いた。翡翠の瞳だけ自分に良く似ている、息子がそこにいた。サラサラと流れる銀の髪は母親に酷似している。 「もうすぐ、アルスターです」 アーサーはレヴィンの返答を欲していないかのようにそのまま続けた。確認作業のようなものだったのかもしれない。 「ティニーが来ます。敵将として」 ほう、と息をついてアーサーは少しだけ俯いた。記憶にない妹の姿を思い出そうとしているのかもしれない。 「俺は、いきます」 そのためにセイレーンを出てきたのだから。アーサーはそれだけ言ってその場を立ち去った。
ティニーは母親によく似た娘だった。ただ性格は似ても似つかない。肝心なのは育ちと言うのはよく言った言葉だ。 ティニーはアーサーによく懐いていて、二人だけで一緒にいる姿をよく見かける。フィーの存在さえも嫌がるティニーに、アーサーは大分甘くしているらしい。 それだけ、肉親に飢えてきたのだろうか。 そう考えるとレヴィンの中の人の部分は激しく痛み、自責の思いにかられてならない。 ティルテュはフリージの中でどう過ごしていたのだろう。その中で生まれたティニーは、どうしていたのだろう。 ジルフェに遮られた視界の向こうはレヴィンには伝わらず、あの時期不安だけで過ごしたことをありありと思い出す。 ティルテュに、ティニーはよく似ている。 少女を見るたびに愛しい彼女を思い出して、流れ出しそうになる感情にレヴィンは困惑した。
「レヴィン王……」 レヴィンは、王と呼ばれるのが好きではない。 それは亡くなった母に対する敬愛の念もあり、己を恥じる意味でもあった。 だが初めて聞く、それでいて聞きなれたような声にレヴィンははっとして振り向いた。 一人でいる姿は珍しい。雷の娘がそこにいた。 「ティニー、私に何か用か」 ティニーは躊躇うかのようにしばらく押し黙り、おずおずと口を開いた。やはり違うのだなと思う。 ティルテュによく似ていても、やはり彼女は別の個人なのだ。 (俺を責める為に、いるわけじゃない) 「レヴィン王は、私達の父……なのですか」 アーサーに聞いたのだろうか。 不安げに紡がれたその問いに、レヴィンは一瞬頭の中が真っ白になった。どう答えるべきなのだろう。 自分は一体、いまだ父だと名乗れる身体であるのだろうか。この半身を譲り渡したような心は未だ人の父だと言えるだろうか。 子などいないと言え、とフォルセティが囁く。 だが、不安げに見上げてくるティニーにどうしてそんなことが言えただろう。 全く別の存在、だがティルテュの姿が重なった。
助けられなかった人だ。
ティニーは目をはっとさせた。 「あの……どうなさったのですか」 レヴィンは、ティニーが何を聞きたいのかわからなかった。 「目元に……」 指先で目元に触れてみる。水分だ、と感覚のどこかが冷徹に言い放つ。どうしてだろう、止まらないのだ。 「ああ……これは、汗だ。気にするな……」 止まらないその雫を眺めるうちに、ティニーの瞳がどんどんと見開かれていく。少女は嬉しそうに微笑んだ。 「はい……とうさま」
結局、否定することは出来なかった。 どうしてそんなことが言えただろう。フリージの中で、突然であった兄に着いて来るほど追い詰められていた娘に。 今まで何もしてやることができなかったのに、どうしてそんなことが言えただろう。 だが立ち去った娘の姿を見送るにも、どうにも頬を伝う涙は止まらない。
ティルテュ。レヴィンは彼女を助けに行くことが出来なかった。 今であった娘に残る彼女の面影に涙が止まらないのだろうか。 (多分、違う)
「どうして、泣いておられるのですか」 かけられた声にレヴィンはそちらを振り返ろうとはしなかった。涙は止まらなかったからだ。 「何をいうセティ、これは汗だ」 遥か彼方の過ぎ去った時が映っているのか、レヴィンは虚空を眺めながら答えた。 「ティニーが、嬉しそうに立ち去っていくのを見かけました」 セティは視線をつかめないことを構わずに話し掛けた。僅かに感情が含まれている。称するなら、怒りとか苛立ちという名の。 それがレヴィンに向けられたものではないということを、知っている。 「あの雷の娘を、『娘』とお許しになりますか」 セティは畳み掛けるように尋ねた。正直なところは本当にフュリーと似ているが、やはり別人だ。子供は親の投影ではない。 「あの、風の守りの一切存在しない娘を、シレジアの王女だとお許しになるのですか?」 ふと、レヴィンはセティを見た。その顔には微笑みが覗いている。 その頬には、変わらず涙が流れていたけれど。
「アーサーもティニーも、何も知らない」
その時セティの顔に浮かんだのは明確な怒りだった。これは、レヴィンに対してのものだ。襲い来る激しい感情にセティはポーカーフェイスを保つことが出来なかった。 「でも、私は知ってしまった!」 知らなければよかったのにとセティは思う。こんなこと、知らないほうが良かったのに。
「貴方のせいだ、貴方のせいだ、貴方がこんな事態を引き起こしたんだ! 風の申し子たる貴方が、風の娘を選ばなかった。それがこんなことを引き起こしたんだ!」
レヴィンは仕えるべき者だ。だが、セティは忠実な臣下でいられなかった。不可視の繋がりが、それを許そうとしなかった。 なによりシレジアに仕えるものであるのに、セティは純粋に仕えられないことが疎ましい。
「私はアーサーに嫉妬している。私はティニーが嫌いだ。私は、貴方を恨んでさえいる!何故だ!」 セティの方こそ、泣いているような顔をしている。 「何故……私をただのセティにしてくれない……」 セティはうなだれた。その名さえ彼を縛っているのだ。 「申し訳ありませんでした」
「セティ、俺は」
セティははっとして顔をあげた。そこに現れた確かに『申し子』が、セティを見つめている。神ではなく。 「俺は、シレジアが好きだ。そこに住む民も、皆」 セティの瞳から大粒の涙がぼろっと零れた。 なんてざまだ、とセティは思う。なんて情けない光景だ。 「貴方の子供を、愛していますか」 レヴィンは頷いた。 「貴方の臣下を、愛していますか」 レヴィンは頷いた。 「母上のこともですか?」 レヴィンは、頷いた。
「でも、まったく違う愛し方で、貴方は雷の娘を愛し、またティニーを愛していらっしゃる」
セティは涙を拭いて臣下の礼をとった。最敬礼の後、立ち上がる。 そうして立ち去っていくセティは、セティ以外の存在には見えなかった。
「とうさま、おはようございます」 ティニーが花のように微笑んでレヴィンの元に走りよってきた。その向こうにはアーサーがいる。 「昨日はありがとうございました。私、とても嬉しかったんです」 ティニーは、幸せそうだった。 「とうさまが、かあさまを愛していらっしゃったのだと解りましたから」 そう言って、駆け去った娘。 その向こうではアーサーが優しい顔で微笑んでいる。
ティルテュの面影を宿した娘。 フリージの娘。
知らない、娘。
レヴィンが泣いたのは、そこに面影をみたからではない。 それでも確かに、ティルテュを想って泣いたのだ。
守れなくてごめん、と知らない娘を産んだ恋人に詫びた。
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