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あの人は風の化身 ジルフェに愛された唯一の人 優しすぎるほどに、優しい
綺麗なあの人を、守ってあげたかった
フェンアイレン _風 愛人
あの日の夢を、ラーナは死の瞬間まで覚えている。 世継ぎの王子を産むこととなる前夜。 夢の中の翡翠の竜の姿は、彼女をどこか不安へと導いたものだった。
グラン暦737年。シレジア第一王子レヴィン、生まれる。
「……レヴィン?」 呼びかけの声にレヴィンは意識を取り戻した。風から抜け出て背後を振り向く。 「ティルテュか、どうした?」 「あっ、ううん。レヴィンがいるようで…いないように思えたから、声かけちゃっただけよ」 手を振りながら答えたティルテュをつぶさに眺めながらレヴィンは頭をかいた。そういう風に見えるということは、未だかつて誰にも言われたことがない。 こんなセイレーンのはずれに、ティルテュは何をしに来たのだろう。 こんな、人も来ない雪原に。 「……悪いな、誰もいないところで父親のことを考えたかったんだろ」 思い当たることは一つしかなく、レヴィンはその場を立ち去ろうと足を速めた。びくりとしたようにティルテュが揺れる。
「レヴィンは」 呼び止められるとは思っていなかったレヴィンの足が止まる。若干うつむいたティルテュはぼそぼそと一人事かのように呟いた。 「レヴィンは、わたしの前でもお父様のことを話せるのね」 レヴィンは目を細めた。言いたいことはわかる。彼女の前では誰でも気を使って話さない、それでいて誰もが念頭に置いていることだ。 それが彼女を思ってのことだと、ティルテュも知っているだろうけど。 「俺は、優しくないからな。慰めの言葉が欲しいなら俺は不適当だ」 カムフラージュさえされない辛辣な言葉は、けれどもティルテュに軽い微笑みを与えたらしい。まったくもって予想しない状況にレヴィンは疑問に思う。 「レヴィンは駄目息子ぶってるけど、本当はずっと優しい人よね」 笑みさえ浮かべて述べられた言葉にレヴィンは絶句する。なんだかものすごく赤面するような事を言われている。 案の定レヴィンは顔を赤らめた、恥ずかしい。
「レヴィンは、自分がいなかったら、内戦はないって思ったの?」 「……ああ。今でもそう思う」 二人の叔父達を思い出してレヴィンはひとりごちた。結局、戻ってきてしまったシレジアに。 幼い頃に自分と遊んでくれた思い出さえあるのに、思い出すのは顔を醜く歪めた顔だけな叔父たち。 きっと、自分が悪いのだ。風のように生きたい自分では、王位など不釣り合いなのだ。 誰でも平和を愛しているのに、こうして内戦がおきつつある現状は。 「はっきり言って、馬鹿だよね」 レヴィンはこけた。 「俺は、真面目に言っていたつもりなんだけどなっ」 立ち上がった。まとわりついた雪を払い落としながら苦情を言う。 「誰もが戦いを望まないと、そう思ってるんだよね」 けれどティルテュの調子は変わらない。彼女だって真面目に話している。真面目に、自分は馬鹿だという。 「……だって、そうだろう。誰だって争いが好きなわけが」 「レヴィンは、優しすぎるんだよ」 言葉は途中で遮られた。 「一つ歯車が欠けただけじゃ、一つ争いの種が消えただけじゃ、終らないのよ」 ティルテュの瞳からぽろりと涙が零れる。悲しいのだろう、彼女は。 多分それは、自分の思いにも似ている。 「その一つの歯車は誰かにとって邪魔なものでも、誰かにとっては大切なものなんだもの」 何故だか、二人とも泣いていた。
「……叔父上たちは、シレジアを愛している」 「お父様は、フリージを愛してる」
「行く先に幸せがあると、信じて進んでいる」
その言葉はどちらが言ったのだろう。 晴れた空の下で、どちらかともなく互いの涙を拭った。
ティルテュは笑った。 明るい娘だと思っていたが、その笑顔は存外強さを感じさせる。 「ねぇレヴィン。シレジアは、いい国ね」 「ああ」
「俺の……一番、好きな国なんだ」
魔道士たちが、じゃれている。 それは練習と銘打ってはいたが、じゃれているにも等しい。 下級魔法を打ち合っては弾き返して、雪原で転がりまわっているのだ。 レヴィンの笑顔を見つめながら、彼女は思った。 彼女の意識とは別の、それでいて同質の意識が痛いほど騒ぐ。 (あの子はいけません) それは彼女の意思なのか、他の者の意思なのか。
レヴィンとティルテュが婚約した。多くの人を驚かせただろう二人の婚姻を、多くの者達は暖かく歓迎した。 一人、宴の端でそれを見つめている娘。 (あの子は、いけません) ざわめくものがある。
「レヴィン様」 目の前の人が婚約してから数ヶ月がたった。何度ラーナ様の元へと言っても承知しない人。 ラーナのところにいくのは、婚儀をすませるためになるだろう、きっと。 レヴィンは軽そうに見えるがその実ずっと誠実で、子供のような人だ。最愛の母の前でないと婚姻など済ませないだろう。 「どうしたフュリー、母上に会いに行けということなら……」 フュリーは頭を振った。 「いいえ。今日はそれを申し上げにきたのではありません」 最近会うたびにラーナの元へ、と言っている。そうではないというフュリーにレヴィンは拍子抜けしたような顔になった。 「内密に、お知らせしたいことがあります。こちらにいらしてください」
フュリーの部屋とされてる部屋だ。レヴィンは昔は平気で立ち入る人の部屋に、だが今日は躊躇った。流石にひょいひょい入るのは駄目だろうという意識もできたのだ。 だがフュリーは何の気もなく「どうぞ」と言う。考えすぎか、とレヴィンは思った。 部屋に入る程度を気にするなんて、考えすぎだ。 フュリーは王子である自分が入るまではいらないだろう。鍵の開けられた部屋にレヴィンは踏み入った。 シレジアらしい簡素な一室。重みに耐え、部屋を暖めるためどこも壁が厚く小さめだ。 背後で、カチリと金属の触れ合う音がする。 疑問には思ったが、気にはしなかった。
「レヴィン様」 レヴィンはびくりとして振り返った。 フュリーの呼びかけに動揺したことなどなかったのに。 簡素な普段着に身を包んだ天馬騎士は、真っ直ぐとレヴィンを見つめている。 「お慕いしております、レヴィン様」 掠れた声だった。 泣きたいくらい真っ直ぐな瞳で、レヴィンを見つめる一対の瞳。 「……ありがとう、ごめん。フュリー」 フュリーの瞳が本気だったからこそ、そう言うことしかできない。 それを告げることで何か壊れてしまうのだろうか。そうならないといいと思いながらレヴィンは返事をした。 「ティルテュ様を、愛していらっしゃるのですね」 直で尋ねられたことにレヴィンは赤面した。愛とかいう言葉で言われるとどうも照れる。だが自分とティルテュの婚約はこの軍の誰もが知っていることだ。 目線をそらして頷いたレヴィンは、だから一瞬それが誰の言葉かわからなかった。
「あの子は、いけません」
背後の窓がガチリと鈍い音をたてて急に開く。凄まじい圧力で風が流れ込んでくる。 いつもは風がどう動こうと平然と立っているはずのレヴィンは、その風に何故かバランスを崩した。 同時にとん、と押された感覚に、瞳を瞬くと天井が目に入る。ひっくり返ったのだ。 「あの方はいけません。あの方は、雷の娘です」 レヴィンは目を疑った。ついでに耳もだ。今の言葉を紡いだのは、確かにフュリーだった。 「なにが言いたいんだ」 怒りを込めていうはずのその声は、しかし困惑だった。大人しくて笑うときも小さく微笑む娘。常のフュリーとはとても思えない。 「……お慕いしております。レヴィン様……」 掠れた囁き声に、レヴィンは顔を強張らせた。いつのまにか腕をとられている。 いや、そうでなくともこの身に受ける圧迫感はなんなのだ。 風の吹き荒れる小さな部屋は、レヴィンに行動を許そうとしない。 「やめろ。フュリー!」 この風に溶けるような感覚は危険だ。天馬騎士が誰でもそうであるように、フュリーもまた風の加護を受ける娘だった。 意識をかき混ぜようとする風の圧力にレヴィンはかぶりを振った。 なんだこれは。 レヴィンはもう一度フュリーに呼びかけようとしたが、塞がれたかのように言葉が出ない。 駄目だ。
その先にあるのは、不幸だけだ。 不幸だけなのに。
暗くなった部屋。窓は既に閉じている。 一人寝転がりながら、フュリーはレヴィンの頭に巻かれていた布を抱きしめた。 「……は、は……」 しゃくりあげるように掠れた声が洩れる。 「あは、あははは……」 フュリーは顔をゆがめてぼろぼろと泣いた。抱きしめた布が涙を吸って色を変える。 「あははははははは…………」 涙はどうにも止まりそうにない。フュリーは堰を切ったかのように笑い始めた。 掠れた笑い声の中、言葉にならない声。
「レヴィン様……」
愛しくて、愛しくて、泣いてしまいたいほど好きな人。 死んでしまいたいくらい、優しい人だ。
「……ティルテュ?」 北部シレジア、セイレーン王宮。 しん、と静まった城内で、ぱちぱちと火がはぜる中小さな子供が膝を抱えて浮いている。 レヴィンとティルテュの息子だ。瞳の中に翡翠を持った少年は、ジルフェの力が強いのか、こうして僅かに地面を離れている。 ジルフェの気配が強すぎて、それ以外操ることも許されなかったレヴィンはそんなことはなかったというのに。 それゆえか身体は弱かったが、愛する一人息子だ。 「……アーサー?ティルテュはどうしたんだ」 アーサーがふわりと振り返った。はずみでふわふわと暖炉の方に流れたのでレヴィンは駆け寄ってその腕にアーサーを抱きとめる。 どうしたのだろう。外出するにしてもアーサーを一人にはしないはずだ。未だ制御のならないアーサーの風は、容易く息子を窮地に追いやってしまうというのに。
「とうさん」 アーサーが舌足らずの声で呼びかけた。翡翠の瞳は中空を見つめている。 「ジルフェが」 アーサーは目を閉じた。伝えなければならなかった。そのためにずっと意識を保っていた。 「ジルフェが、かあさんをさらっていったよ」 少年は気を失った。
レヴィンは走った。少しでも多く風を感じられる場所でなくてはならない。風に溶けるかと思うくらいの場所に。 ティルテュは、そうやってレヴィンが風に溶けることに不満だった。「風に取られてしまうようだ」と言った彼女。 屋上と出たレヴィンは勢いのままに空を振り仰ぐ。 「フォルセティ!」 最も自分に風を体現するその名を呼んで、レヴィンは必死に声を探った。 頭のどこかで、なにかが閃く。
(...)
ジルフェだ。焦りが声を聞きづらくするのでよく聞こえない。
(...)
もっと集中しなければ。ティルテュをどこに攫ったと言うのだろう。
(...あのむすめ、かみなりのおとこにみつかった)
ティルテュの兄はトールハンマーの継承者。確かブルームといったはず。
(...レヴィンさま。あなたが、えらんでしまったから)
ジルフェの声音に別のものが混じったことに、レヴィンは気がつく。
(...かぜのかごさえうけぬむすめ。あなたをうばわれて、ゆるすとでもおもったのか!)
ぱん、と弾かれてレヴィンは目を見開いた。唇がかたかたと震える。 「どういう、ことだ」 ティルテュ。意識の中で彼女を呼んだ。思い返すのが笑顔ばかりの娘。 「彼女を選んだのは俺だ。愛したのは俺だ。好きになったのはティルテュだったんだ!」 耳元で口を塞ごうとしているフォルセティを振り切って、レヴィンは空に叫ぶ。 「憎むのなら、俺を憎めばいい。ティルテュが何をしたと……!!」
憎むのなら。
自分で言ったその言葉にぞっとする。 そうだ。どうして気がつかなかったのか。 これほどまでの風の怒りに、何故気がつくことがなかったのか。 「ティルテュッ………!」 もう遅い。風となってしまった彼を、風はティルテュの元へ届けはしない。 もう、何もかも手遅れ。 レヴィンの涙を拭う人には、もう会えない。
(あの子はいけません)
かつて、そう言われたことがある。
ティルテュ、雷の娘。トードの血を引く優しい少女。
――風に殺されたひと。
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