大好きな人はたくさんいるの
父さん
兄ちゃんたち
おじさんたち



ねぇ、でも本当は
一人だけで良かったの



うつくしいひと
かしこいひと
ばんのうのひと


金の瞳

母さん一人だけ
微笑んでくれたら良かったんだよ






母の偶像





 あれは夜のことだった。未だ夜明けに満たない夜のこと。
 虫の声がうるさくて心臓がばくばくして。
 隣にいる男は黙ったまま何も言わなくて、ニノはまるで独り言を言っていた気分だ。


 人を殺しに行ったのだ。
 父親に疎まれた人を。


 だが、どうして殺せただろう。真夜中に祈っていた人を。
 ニノはそうした祈り方を知っている。夜中に祈る人を知っている。
 狭いベッドに身を丸めて、枕を抱きしめて祈るのだ。
 瞬く間に意識を失って、さぁ。と示されて尚。
 どうして彼を殺せただろうか。



 決別ではなかった。
 ゼフィールを殺したくなかったのは、決してソーニャとの決別を意味しなかった。
 父親に殺されようとしている王子。それはニノの姿で。
 ゼフィールを生かすことが出来たら、ニノが生きるのだった。
(ねぇ、もしもあたしが死んだら)


 父親に愛されたいと、切なく祈っている王子様。
 この人を生かせたら、きっとお父さんは王子様を愛してくれる。


 ニノは、ゼフィールを殺せなかった。



 無口な男は、死ぬほど優しく。
 何もニノに言わないで手を引いた。


(母さんは、あたしが邪魔だったの)

 殺されようとしているなんて、何も言わずに手を引いた。
 それは男にとっての決別だった。
 ニノの決別ではない。
 稚拙なニノは、大切なものがたくさんあって。
 それでもただ唯一を求めている。



 優しい男に全てを捨てさせ。
 綺麗な人を振り切って。


 あれも、夜のことだった。
(だって、血の繋がった唯一人の母さんなの)












 ニノはふらつく足で足を進めていた。
 こんな風に歩いていてはいけないと理性ではわかっている。周囲に現れる黒い牙の者達はニノにもジャファルにも容赦なく攻撃を加えていく。
 それでも足を止める気が起きないのは会いたい人がいるからだ。
 母ではないらしい母親。
 あの美しい女に会いたいからだった。


 エリウッドたちがふらついた自分に気を使って進軍しているのに気がついている。
 いい人たちだ。そうだ、嘘などつくこともない人たちだ。
(そんなこと、出会った時から知ってた)
 だがニノを動かすものは昔も今もソーニャ一人で、心の綺麗な人の言葉ではない。
 怯えた顔をしていたヤン。
 辺りに現れた黒い牙は確かに仲間であったはずなのに、ヤンのことすら知らないように剣を振るってくる。
 全てソーニャがやっていたこと。


 そうだ、気がついてしまえばいろいろな事が見えてくる。ニノは愚かな娘ではなかった。
 ソーニャが会っていた黒髪に金の瞳の人間たち。
 一人一人と消えていく古参の者。
 ブレンダンを厭っていたソーニャ。
 ロイドとライナスが、ソーニャを疑っていたこと。
 全部ニノは知っていたのだ。だがソーニャを疑うことなど考えもせず、ただあの女の愛情を求めていたニノにはそんなことを気にする必要などなかった。



 肩を矢が貫いてニノは大きくふらついた。とっさに握り締めた魔道書は開くことすら思い浮かべなかった。
 精霊の宿る書物は文字のひとつとてニノは読むことはできなかったが、その一文字一文字に存在する整然とした精霊達を知っていた。
              ・ ・ ・
(この子達を何に使おうとしたの)


 魔法を解き放つことを出来なかったニノに再び向けられた矢をジャファルが弾き落とす。
 どうしてこの男は自分と共に来てくれたのか。
 瞳に映そうともしていなかった鮮烈な存在感にニノはうめいた。
 ジャファルはネルガルの部下だった。ニノがソーニャの娘であるように、それはずっと前からそうであった。


 ニノが幼く兄達と遊んでいる間にも人を殺していたジャファル。
 牙の裁きを冷徹に行なっていたジャファル。
 そして、自分を殺すはずだったジャファル……。


 どうしてジャファルはニノと共にいるのだろう。

(どうして、あたしはエリウッド様たちと母さんの元へいくのだろう)





「あーあ、見てらんねえな」
 ヘクトルが苦々しげに吐き捨てた。レイラを殺したジャファルへのひっかかりは抜けないものの、ニノへその感情があるわけではない。
 暗殺集団にあるとは信じられない優しく明るい気性。痛ましいまでに母親の愛情を請う娘に棘のある感情を向けられるほど、ヘクトルは情のない男ではなかった。
 今ニノは戦場をふらつく足取りで進んでいる。
 生来の身の軽さがあるのだろう、身体は自ら致命傷を避けるべく飛び交う矢や魔法を避けてはいるが、そんな状態で良いわけがない。ニノに降りかかる危険のことごとくを打ち払っているのはジャファルだ。
 赤髪の男の興味はニノの保護しかないらしく、能動的に敵を倒しに行くわけではないが、近づいた者を全て瞬殺している。
(赤頭巾を食べない狼)
 ヘクトルはその姿に忘れ果てた童話を思い浮かべた。
 目の前の狼の怪我を心配する娘。狼は娘を食べることが出来ない。


「戦場で拘っていたら、命を落とすわよ」
 片刃を振るいながら、リンがヘクトルの近くへと寄った。それにヘクトルはふん、と鼻を鳴らす。
「俺はエリウッドほど優しくなれないんでな」
「ああ、もう。本当にバカ……気づいてないわけじゃないんでしょう?」
 リンは美しい黒髪を垂らし、やや下がった方にいるエリウッドを伺った。エリウッドの戦い方は、その概ねが試合によるものだ。美しく整った型は咄嗟の時に抗することのできる基礎を養う。それでも実践を主においていない戦い方は、エリウッドの周囲に動乱を感じさせない。
 エリウッドは、ニノとジャファルの様子をいたく気にしている。ニノを守るジャファルの労を減らそうと、そちらに向かう敵を減らそうとしているのだ。エリウッドの意思を汲み取ってマークがそれに準じた体制を作っている。
「何のことだ」
 同じようにエリウッドに視線を向けていたのだろう。リンが視線を戻したと同時にヘクトルが尋ねた。
 その様子を見てリンは思う。ひょっとしてこの男は、親友のことなら何でもわかると言いたげな様子をしているけれども、本当にエリウッドが隠し通そうとしたならばそれに気がつくことはできないのではないだろうか?
 エリウッドは素直な性質なので隠し事はほとんどない。それが、かえって本当に隠すことへの蓑になっているのだろう。


「エリウッドが言わないから、黙っていようかと思っていたけど」
 リンは、一層声を潜めると囁いた。
 あの場にいなかった他の誰にも聞かれてはいけない。マークは、気がついていただろう。


「……エルバートのおじさまの傷は、レイラのそれと同じものよ」

 ヘクトルの斧が、びくりと凍った。
 その隙をついて切り込んでくる黒い牙をリンが切り払う。
「やっぱり、気づいてなかったのね」
「だって……それならあいつは」
「エリウッドは、気がついているわよ」
 気づいていないわけがないだろう。瀕死のエルバートを抱えていたのはエリウッドだ。ジャファルの作る傷はうっすらと切り裂くように繊細で、深い。リンは、あんな傷を他でみたことはなかった。


(許せないこともある)
 エリウッドはそう言った。


「なんで」
 ヘクトルが苦しげに呟く。
「なんであいつは、そんなお人よしなんだ」
 エリウッドが止めなければ、ヘクトルはジャファルを斬るか、見捨てていたはずだ。彼が率先として仇を取りたいと願わなくとも目の前からジャファルは消えていたはずなのに。
 まして手元に受け入れ、今もその身を心配している。


 比べて自分はなんてあさはかで心が狭いのだろう。エリウッドといると、たまに兄といるような気分になる。

「……ねえ。ニノ、っていい子よね」
「なんだよ、いきなり」
「あの子ね、王宮で出会った時王子の心配をしていたの。私たちが誰かの確信もないのに、ひょっとしたらあの子を殺しに来たのかもしれないのに。直ぐに信じて……ジャファルを助けなきゃ、って一生懸命で。全身で体当たりしてるのよね」
「……」
「そんなニノを、ジャファルは守りたいと思ってる。それがわからないほど、バカじゃないわよね」
「……」
 ヘクトルはヴォルフガングで襲い掛かってきた飛竜をなぎ払った。






(首領がやられた!)
(リーダス兄弟は帰って来ない)


 あたしは、ずっと母さんのしていることを知っていた。
 強くて、美しい母さん。母さんの愛を得るためならなんだってできると思ってた。
 なのに、あたしは今たくさんの優しい想いに抱えられて母さんのところに向かっている。母さんの愛情のためなら捨てていいと思ったもののおかげで、あたしは母さんが、母さんでないことを認めなければならない。


 ゼフィールを助けたかったのは、王子様のためじゃない。
 あたしが、母さんに愛されたかったんだ。
 母さんに愛されたかったから、帰って弁明をするのではなく、あの場で死のうとしたんだ。


 けれども、ニノに残っていたのは唯一と請うた人ではなく、切り捨てたはずの大切なものだった。

 ずっと前から、知ってたはずだ。
 血の繋がらない父さん、兄ちゃんたち。ラガルトおじさん。無骨で優しい暗殺者たち。
 あの手のぬくもりは、ソーニャの柔らかくて冷たい指先よりも、ずっとニノを暖めてくれていたということを。






(ああ、でもあたしは)

(ソーニャと血が繋がらないことを、これほど感謝している)





 酷いのはあたしだ。










「本当の母さんだって、ずっと、信じてた」
「愚かなことね」


 ソーニャの冷たい声音はいつものことだ。
 ちらちらと冷たい雪が、ニノの心に降り積もる。
 かつて、あんなにも心を裂いたはずの声音が、今は空ろに心を通り抜けていく。


 だって、ソーニャはニノの母親ではないのだ。
(そして、この母親ではないきれいな女のために、ニノの切り捨てた優しいひとが、一体どれだけいただろう)


「許さない」

 溢れてくるものが、なんなのかなんて知ってはいけない。
 これは、甘えだ。




「ぜったい……ぜったいっ、許さないっ!」



 この、あたしを。










 白い、小さな花を水の神殿に手向けた。
 ここで死んだたくさんの家族のため。父さんのため。
 愚かであさはかなあたしが見捨てた、数え切れない命のため。


 勉強を、しよう。文字が覚えたい。本を読みたい。たくさんの、想いを知らなければならない。
 あたしのできることならなんでも。荷運びでも、整頓でも、料理だって、教えてもらえればきっとできる。


 贖罪をしよう。



 それが、母の偶像よりもたくさんの温もりを選ぶための、ニノの選択。
















(05/12/03)