10年
人と神との契約
愛し子へと預けられた選択の時は




……子供の成長を見守るには、あまりに駆け足で過ぎていく





風 語 り
02:そして人をやめた





「レヴィン様!」
 後方から声をかけられてレヴィンは振り返った。今日の話は終わり、とティルナノグの城を出てきたばかりだ。
 未だ幼い子供達をワープの魔力にさらすのは良いことではないので、レヴィンはワープを使うときは必ず一人になってからすることとしていた。
「何だ、オイフェ」
 オイフェやシャナンを見るたびに、時間というものは早いのだと思う。時間を実感するのは子供が大人になるのと、大人が老いていくもの。どちらがより実感させるのだろうか。
「帝国で子供狩りが密かに行なわれ始めているというのは、本当なのでしょうか?」
 子供たちの前では言わなかった話題だ。オイフェは独自のルートでそれを聞いたのかもしれない。
 一年前に、アルヴィスの統治の移転を告げた頃から。
「そうだ。公とはされていないし、未確認だが」
「……っやはり、アルヴィスめ……!!」
 オイフェの顔が憎しみに彩られる。昔はしない表情だった。
「オイフェ、今はまだ時期じゃない……お前が落ち着かずにいたら、セリス達も動揺するだろう」
 そうとは言っても、オイフェの中の憎しみはそうそう解かれるものではないのだろう。


 シグルドをとても敬愛していたオイフェ。
 未だその憎しみが、晴れる事は無いのだろう。


 オイフェは俺の言葉にはっとしたように頷いたが、納得はしていない。
 それをどこか遠い心で見送って、レヴィンはティルナノグから姿を消した。






 アルヴィス皇帝の中には、ロプトの血が流れている――。
 選択を迫られた後、戯れに与えられる風神の声。
 アルヴィスが暗黒教団の国教化を認めたのはそのためだろう。
 己の血が明らかにされたとしても、それが断罪の対象とならないようにする為に。
 国教化、といっても従来の十二神教が迫害されるわけでもないし、一般にはロプト信仰も認められるようになった、ぐらいの意識だろう。
 隠れていた信徒達が、すぐに平穏を認めて出てくるわけでもない。
 実感を帯びない恐怖は、それほど変化を与えない。
 アルヴィス皇帝の治世が狂ったものなわけでもない。


 だから今国教化、と言ったとしても、聖戦士の末裔であるアルヴィスがロプト信仰の疎まれる最大の理由――子供狩りなど、行なうはずも無いだろうと。

 それが一般における認知だ。
 そして、レヴィンもそう思っていたのだった。




 フォルセティはほとんど何も伝えない。
 ただレヴィンを世界各国に行かせるのだ。そこでレヴィンは帝国下の様々な現状を見、それをもとに考える。たまにティルナノグに行って、オイフェやシャナンに現状を伝え、セリス達に若干の教育を施す。
 それ以外は、シレジアに戻る。
 シレジアは帝国に敗北した。だがレヴィンを筆頭としたシレジアはただ帝国にひれ付すだけでない二重統治を与えるまでに至った。
 レヴィンの存在があるということはそれだけで帝国に圧力を加え、国民に強い意志を与える。
 シレジアに派遣された将軍がアイーダという優れた将軍であったのもそれを補助した。
 ヴェルトマーの裏切りを思い出し、レヴィンはアイーダに良い感情を抱くことは難しかったけれど、両国のバランスをうまく保つアイーダは「左遷ですよ」と言って微笑むだけだ。
 シレジアは、平和だ。
 他の帝国下も、それは同じ。


 ヴェルダンは蛮族が暴れているが、帝国は支配体型が安定したら鎮圧に向かうだろう。
 アグストリアは今はグランベルの役人が圧制を強いているが、いずれアルヴィスがそんなことを許さないだろう。
 イザークも同じ。
 南トラキアは傭兵の機会を奪われたならば徐々に国は弱っていく。


 そうして、グランベル帝国の完成だ。

 この10年はレヴィンに大局の見方を教えた。5年後の未来が見えるかのようだ。
 オイフェはそのように伝えられるレヴィンからの情報を酷く恐れている。そうだろう。アルヴィスの治世が優れたものであればあるほど、民はセリスの蜂起に付いてはこないだろうから。
 だからオイフェは期待している。
 子供狩りが、酷くなる事を。


 レヴィンはこうして平和が続くならいいと思うことは、シレジアが平和だからの傲慢だろうと感じていた。だから、オイフェに変わらず伝えに行くのだ。
 確かに今現在のイザークは帝国の力が行き届かず、ドズルの圧制に苦しんでいるのだから。
 いずれ秩序の中に収まる、などという考えを納得することなど出来ないだろう。
 でも、このまま圧制に導かれるとは、レヴィンは思っていなかった。






 レヴィンはワープから解放された。杖がもう少しで色を失うだろう様子を見てやれやれ、と思う。
 このところ、自分の体を希薄に感じる。
 レヴィンにはわかっていた。他の誰にも伝えられないことだが。


 10年だ。

 子供たちの成長を見届けるには早すぎる年月。
 だが、洗練されていく帝国を見守るには、長い年月。




(どうしてだ、フォルセティ?)
 レヴィンはこのところ毎日のように問い掛ける。
(どうして、俺の命を10年長引かせる必要があったんだ?)
 もうじきレヴィンは消え果てる。
 10年間延ばした命の代償は、風化と共に訪れるだろう。だが風になるなら悪くない。
 フォルセティの迫った選択は、人を選ぶことで終る。
 契約は履行されない。
 帝国の元の平和は、レヴィンに人非となってまで生き長らえる意味を感じさせなかった。
 何故フォルセティはそんな選択をレヴィンに迫ったのだろうか。


 何をそんなに、憂いているのだろうか。



「レヴィン!」
 シレジア。神との約定を元に奔走するレヴィンの代わりに、常務はラーナが行なっている。
 緊迫した母の声。
 レヴィンは嫌な胸騒ぎを感じた。
 ひょっとしたら、予感、とも言えたのかもしれない。
 ラーナはレヴィンを連れて一つの部屋に入った。シレジアは雪国だ。部屋は一つ一つ小さめに作られていて壁が厚い。
 秘密話にはもってこい。
 ラーナはそれでも小さな声で囁いた。
 それを告げることが災厄を運んでくるかのようだ。


「アイーダ将軍が殺されたわ」





 歴史が急激に動こうとしている。





 口の中に渇きを覚えながらレヴィンは最後のワープを使った。
 杖の宝玉に音をたててヒビが入る。
 母を送るための術が消えうせたことに不安を覚える。自分さえ残ればシレジアは残る。母こそトーヴェに送りたかったのに、ラーナはそれを良しとしなかった。
「母上、帝国からの引継ぎの者は……そろそろですか?」
 レヴィンはゆっくりと母を振り仰いだ。身体を包む異常な疲労が立ち上がることを許さない。簡素な、しかし職人のこだわりが見える玉座がレヴィンは好きだったけれど。
 既に南部シレジアの国民には布告をさせたが、どれだけの者達が動けるだろうか。帝国からの先触れが、アイーダが亡くなった時から考えてやけに迅速だったことも気に入らない。
 フュリーとフィー、セティとをトーヴェに送るだけの時間しかレヴィンには無かった。
 この、早過ぎる時間の流れは、一体どうしたことだろう。
「ええ……レヴィン、顔色が悪いわよ。やはり休んだほうが良かったのではないの?」
「大丈夫です、母上」


 そうだ。こうして10年生き長らえたのはきっとこの時の為なのだ。
 レヴィンはそう思うことにした。そうでないなら自分がここにいる意味はなんだろう。このためにフォルセティが己に命を与えたというのなら、休むことなくともいいはずだ。
 レヴィンは立ち上がった。硬い床が薄いものに感じた。






 シレジアの夏は短い。早く冬がくるといいとレヴィンは思った。冬がくれば、グランベルもそうそう攻めてはこれないだろうに。
「グランベル帝国司教……ギュルヴィ司教いらっしゃいました!」
 シレジアに残り、北部に退避する事を良しとしなかった騎士達を周囲に控えさせ、レヴィンはグランベルからの来訪者を出迎えた。
 城からでてわかったが、未だ民たちも多くシレジアに留まっている。
 レヴィンとラーナを、慕ってだった。
 やるせなさに胸が詰まる。
 ラーナと共に、その薄暗い集団を見つめながらレヴィンは10年前を思い出した。この暗さがどこからくるのかはわかっている。
 アイーダの後任は、ロプトの司教なのだ。


「これはこれは。シレジアのレヴィン王自ら城外で出迎えてくださるとは……」
 丁寧だがどこか尊大な口調でギュルヴィは言った。レヴィンはその男の口上を聞きながらも連れてこられた面々を確かめていた。少ない。
 やはり、まずは友好的な態度をとって時間を稼いでいるのだろうか。国境に軍を集める時間を稼ぐ為に。内戦を体験したシレジアは戦力に薄い。時間が発てばたつほど不利になる。
 だが、見計らったような迅速さが気になって仕方ない。
「まずはギュルヴィ司教、我がシレジア城に貴殿を迎え入れる前に確認したいことがある」
「ほう、それは?」
「貴国との間の条約は、先任アイーダ将軍との間に取り交わしたもので変更はあるまいな?」
 レヴィンは張り付く喉に水分を送らなければいけなかった。
 攻めさせる口実を与えてはいけない。独立を保つことが侵攻の原因となるならば、今のまま協調を保たなければならないのが現在のシレジアの状況だ。
 アイーダ将軍を殺したのは、シレジアにその罪をきせるためだろう。そうさせるつもりはなかった。


 けれど悪意は常に、レヴィンを侵す。

「くっくっく……」
 突然ギュルヴィが漏らした笑いに周囲が色めきたった。シレジア騎士に殺気が走る。
「ギュルヴィ司教、お答え願いたい」
「我等が帝国に逆らうシレジアよ、それが愚の骨頂だということを知るがいい。
 服従を。さもなければ剣によって求むることとなる」
 天馬騎士達が一斉に槍を構える。それを片手で制してレヴィンは言葉を続けた。こんなにも感情の無い声が出せるのだ、とレヴィンは思った。
「それは、条約を一方的に破棄する、ということか」
「ふっ……反逆者のアイーダが結んだ条約など、我等が帝国には関係の無いこと」
 な。
 シレジアの咎として、ではなかった。
 帝国はアイーダを切り捨てたのだ。
 あまねく悪意。


「それが……返答か!」
 レヴィンは騎士達を抑えていた手を下ろした。
 口実を与えるも何も無い。始めからそのつもりだったのだ。
 それならば一刻も早く準備を始めなくてはならない。
 天馬騎士達が一斉にかかろうとしたその時。


 ギュルヴィの嗤いを、レヴィンは見た。
 瞬間。
 あたり一面を、真っ黒な一団に囲まれる。
「なっ……ワープを自在に扱える者がここまで!?そんなことが……」
「我々はリワープの杖を編み出しましてね……シレジア王太后……」



 辺りを囲む、何百もの……ロプトの神官。
 まさか。
 始めから、その気だったのだ。
 作りあげたばかりのリワープを、最大限に利用した――。


 フォルセティを唱えようとした。
 それしかないと思った。
 シレジアを、守る為に。
 ――ごほり、とレヴィンは血を吐いた。
「陛下!」
「ふふ……やはりマンフロイ大司教のお言葉どおり、貴方の身体はボロボロのご様子」
 闇が迫る。
 これほど、己の身を頼りなく思ったことはない。


 こんなことで終るのだろうか?
 そのために10年永らえさせられた命だというのか?
 フォルセティ――


「レヴィン!」

 ぱさり。
 酷く軽い音がした。
「母上」
 レヴィンはラーナに手を伸ばした。
「母上」
 ギュルヴィは笑って、二人を助けようと殺到する騎士達を殺害するよう手を振った。
「レヴィン、わた、しは」
「母上、喋ってはいけません」
 杖が、杖が無い。
 レヴィンは力の失せる体でラーナを抱き上げた。軽い。
「しゃんとなさい……レヴィン」
 優しい声だ。いつも悪戯ばかりしていたレヴィンをよく叱った声だ。ペガサスから落ちて大怪我をしていたとき、ずっと傍で話し掛けていた声だ。
 母の声が好きだ。母の笑顔が好きだ。怒った顔や心配する顔ばかりさせていたけれど、レヴィンは母の笑顔が一番好きだった。
 母の守る、この国が好きだ。
 父の愛したこの国を、母もまた愛していた。
「あなたが、あの日」
 ラーナは笑っている。でも駄目だ。こんな笑顔は嫌だ。
「戻ってきた時……わたしはとても、嬉しかったのよ」
 どうして、そんな様に笑えるのか。
「シレジアを……」
 どうして、どうして。
「この世界を、まもっ――」
「ロプトゥスこそが、憎い光から我等を救うのだ!」
 ギュルヴィがラーナの言葉を嘲るように言い連ねた。




 どうしてこの世界は闇に侵蝕されるのだろう。
(あの日、ロプトゥスが契約をなしたから)
 どうしてこの世界は光により覆われるのだろう。
(あの日、竜族が契約をなしたから)
 どうして……
 人の世界は、神という見えないものにより、こんなにも躍らされているのだろう。
(竜は、今後悔している)


(人というのは弱いけど。人というのは愚かだけど。
 それでも人というのは優しいから、自分たちで生きていけたのかもしれないと)


 闇も光もあるんだよ。でもそれは、こんな醜悪なものじゃない。
 けれど一度落ちたコインが水の中から掬えないように、
 神はこの世界に同化して消えないものとなった。






 ――人だけじゃぁ、この異物を除いていけないんだ。
 闇へと傾いた天秤。そこには神様が大きな顔して居座っているのだもの。






 眩しい光。その光の収まった後には倒れた騎士と黒装束の神官たちしか残ってはいなかった。
 残された遺体の少なさに違和感を覚えたけれど、ギュルヴィも神官たちもそういうものだ、と思った。
 王族の遺体はそこにはない。けれどそういうものだ、と思った。
 民の大多数はレヴィン王の布告に従い、北部シレジアに移動しているらしい。
「北部シレジアなど行く価値も無い。捨てておけ。代わりにセイレーンへの間道を封鎖しろ。
 それと、南部のペガサスは見つけ次第始末せよ」
「はっ」






「レヴィン、お前は選択した」
 レヴィンの形をしたものは、己の身体にそう呼びかけた。
「これは竜としての私の罪。人としてのお前の罪」


「これからは、選択の日々よりより長く、より辛い……契約の日が始まる」
 ――最後の神の干渉を。
 それから 「すまない」 と囁いた。













 10年
 人と神との契約
 愛し子へと預けられた選択の時は




 ……人を捨ててしまうには、余りに短い日々だった














 (02/12/21)