「……どちらを選ぶのかは、決めたのか」
「決めたのはセリス様」
「……でも、お前」
「私が、決められないって言った。だから……」
半月の恋
グラン暦777年、セリス公子の挙兵。 イザークのティルナノグにて、隠遁を発見されたセリス公子は時はきたとし、ティルナノグを防衛。逆にガネーシャを攻め落としたことによってイザークの解放に名乗りをあげることを宣言した。 ガネーシャを落とした後、南に見据えるはソファラ、イザークの城。それぞれヨハルヴァ、ヨハンが治めている。 そして、ドズル公ダナンが城を構えるリボーであった。
思えば、その男との対話は常に儚さを孕んでいた。
「――また、お前?」 艶やかな黒髪を惜しげもなく晒して、少女はその男に視線を向けた。イザークの血が色濃く流れていることを疑いもしない涼やかな美貌。瞳の中に刃を抱いたような視線が心地よいほどだ。 笑う男に対して、少女は不機嫌を顕わにする。 「私は、戯言を聞いている暇なんかない」 使い慣れていない突き放すような声音がまた可愛くて笑うと、少女は一層機嫌を損ねたようだった。 つんと顔をそむけるので彼女の心情がよくわかる。 わかる、と思っている。 彼女が常に腰に下げた剣に手を伸ばさないのも、彼らを保護する大人たちに自分のことを告げないのも。 六割ほどは自惚れかもしれないが、それでも期待を抱いている。
少女も彼も、互いの名前を名乗りあったことは一度もない。 だが匂うような空気で自然それは悟ったし、自分とは違う時に、やはり彼女と出会ったらしい兄弟とてそれは同じだろう。 嫌いあい、憎みあいを続ける彼ら兄弟は、それでもよく似ていた。
「向こうの山で、また、女が一人死んだわ」 それを、どう思うの。と少女は痛烈な視線で睨みつけてくる。その仕草は、彼の信念を探る作業にも似ていた。ドズルの男に襲われる女は後を断たない。堪えられずに自害するものもまた。 男がそういったことは許せない、と返すのを、確かめるように少女は続ける。 「お前は、私が好きだというけれど」 透明で美しく、刃のような視線。 「それは、どれほど違うというの?」 男は言う。少女が欲しいと思う凶暴な感情は変わらないだろうと。 けれども、少女の思いがそこにないと、意味がないところだと。
しかし、その先にあるのは刃と刃を合わせあう道だろうと、何故だか彼女は言い出せなかったのだ。
ガネーシャは騒がしさで溢れていた。 統治者層がドズルとはいえども、住人はイザーク人である。そして、イザークの民は民であろうと剣を磨く志は変わらない。今こそ解放の時であると、続々と志願兵が集まっている。 誰もが忙しさと無縁ではいられないが、その中でも忍耐を強いられたのは双子達だっただろう。スカサハとラクチェは先の王妹、アイラの実子である。シャナンが不在の今、イザークの者たちの期待は二人の元に一心となって集まっているのだ。 今こそドズルを、と請われ励ましを授けていくのは、誉れでもあり、難事でもあった。
「スカサハ」 固まっていた肩を解していた兄に、妹の声がかかる。 「どうした、ラクチェ?」 振り返ると彼女は机の上にと伏せて、木の板の冷たい感触に頬を預けていた。 「次は、ソファラ?それとも、イザーク?」 「お前は本当に、気が早いな……でも、そうだな。向こうも黙っていないだろうから、出を見計らってからになるかもしれない。……あるいは」 スカサハの大きな掌が、静かに髪を梳っていく感覚を思いながら、あるいは。とラクチェは続けた。 「あるいは、動く前に、こちらから動くわね」 「ああ」 動員できる兵数に、やっと目処がついている。兵の実力も見定めなければとても使えやしないから、まだ時間はかかるだろう。だが、この”動く”とはけして兵を送ることではない。
「ヨハンも、ヨハルヴァも、容易に崩せる用兵はしないわ」 ああ、とうとうその名が出てしまった、とスカサハは妹の髪を梳く。 「……二人は、子供狩りにはずっと反対してたし。……民の誇りが許さなくとも、領内で、ずっと不満が少ないこと、セリス様はご存知だわ」 スカサハは、黙って彼女の言葉を聞いていた。 彼にはけして、それから続く言葉は好ましいものではない。 イザークの民にとっては、慕う王族への一縷の不安。 ドズルの兵にとっては、仕える主君への悩み。 双子に流れる、ネールの血。
「……私、あの二人と戦いたくない」 彼らがラクチェへ懸想していることは、イザークにとってもドズルにとっても、周知の事実であった。
「……ああ、そうだな」
それでラクチェが傷つくなら、今すぐ刃を閃かせようと構わないのに。
「両方は、駄目ですか?」 セリスは正面で組んだ指を組みなおした。ラクチェは紫の瞳を一杯に開いて、セリスをじっと見つめている。 スカサハは、妹の隣で無表情で立っていた。普段穏やかな彼が表情を消すと、戦場で見せるような冷たさが漂ってくる。 「駄目だ」 その言葉は、彼の空気ほどに冷たく言い放てているだろうか、とセリスは思った。でも、と追い縋るような声ではならなかった。 「ヨハンとヨハルヴァは仲が悪い。一方がこちらに加わることを賛同すれば、もう片方はそれを選ばないだろう」 でも、とラクチェが続ける前にセリスはけど、と続けた。
それはレヴィンの見解だったが、彼は少し、感情面に目を向けすぎだと思う。 少なくとも、ヨハンとヨハルヴァは愚かではない。親と信念との間に板ばさみになりながらも、子ども狩りを拒否し、統治を思うように行うしたたかさを持っている。 真に民を思うのであれば、我々に加わるはずだ、と一概に考えることは出来ない。 帝国に組することで、守れるものを、否定できないのだ。 それが彼らにとって、例えば父や、母であるとしたならば、如何に信念がセリスと沿うものであったとしても、彼らから率先と歩み寄ることはないだろう。 だから、ラクチェなのだった。 彼らを帝国に結び付けているものが情であるならば、情を持ってこちらに引き込もうというのだ。 酷い策だ。セリスは自嘲する。
「けど、彼らが双方とも我々に組することを頷くとしても。それではイザークの国民は納得しない」 ラクチェの紫の瞳が揺らいだ。 ひどく、悔しそうな色合いだった。 何か言いたいことがあるのに、上手く言葉にならない。そんな色彩を帯びている。 妹の唇が震える横で、スカサハが静かに口を開いた。 「セリス様も、納得しないんですか?」
セリスはただ、少し肩を揺らしただけだったが、その言葉は激しい動揺を誘っていた。 (私情では、ない) そうだ、これは私情ではないはずだ。ラクチェの細い指が兄の服を掴み、小さく首を振る。 「わかりました、セリス様」 「……ヨハンとヨハルヴァ、どちらを説得したい?」 「したいか、ですか?」 「うん」 ラクチェは暫し言葉を失うと、迷うように視線が泳いだ。
「少し、考えさせてください」 「うん、わかった。……ごめんねラクチェ」 いいえ、と少女は笑った。
ガネーシャの城主が、ティルナノグについて感づき始めたかもしれない。 それを告げたのは男だった。セリスについては第一級の秘密だった。 シャナンとスカサハとラクチェはその名と生存の事実を広く知られている。そのため、わざとティルナノグから遠く離れた村に出て姿を見せたりすることもあった。この兄弟とも、そうした中で出会ったのである。 セリスを匿っているとすれば、イザークの王族が落ち延びているといった問題ではない。 皇妃ディアドラの長子、セリスの生存はグランベル帝国そのものに関わる問題だ。その居場所が知れることは時がきた、ということに他ならない。今はシャナンもオイフェも、レスターもデルムッドもいないというのに。 当然ラクチェは瞳の色を変えた。 勢い立ち上がる彼女に、男はただ視線を向けるのみ。
ラクチェは、腰から剣を抜いた。 「どうして、教えるの」 刃は重く、真剣の輝きを見せていた。 男は、剣などに目もくれず、ラクチェの瞳を見つめている。
「本当に、綺麗だ」
それ以上、剣は振るえなかった。
ラクチェが黙って草原に座ると、男もまた腰掛けた。 空をゆく雲が、のんびりと動いている。 「お前は、私の敵?」 ぽつりとした呟きに、男は驚いたようだった。それも数瞬のことで、さっと破顔する。 「どうして、そんな嬉しそうな顔をする」 憤慨してそう言うと、男は屈託なく続けた。
(ラクチェが自分を斬ることを躊躇ってくれるなんて、思ってもみなかったから)
躊躇う? ラクチェは狼狽したように瞬きを繰り返した。 それでも、男の笑顔は止まなかった。 ラクチェはそれが不満だったが、何故か嫌な気分はしない。
それが、何故かなんてしらない。
「……どちらを、選べばいいのか。わかりません」 ラクチェの出してきた返答が、どちらでもよいから、というものであればセリスの心はいくらか楽になっていたかもしれない。 だが、顔を青ざめて現れたラクチェの表情には寝ていないのがありありとわかる。 それほど、彼女を悩ませている男がいる。 その事実はセリスにわだかまりを、そして、自分の判断へ不安を覚えさせる。 ラクチェが判断をセリスに委ねてきたのは、どちらでもよいからではない。 また、罪悪感をセリスに押し付けるといった意図でもないだろう。 どれほど平静をもって、解放軍のためにと考えたとしても、そこにラクチェの恣意が混ざることを恐れているのだった。
その事実は。
セリスは限りなく表情から感情を排し、では自分が決めよう、と続ける。 「どちらであっても、精一杯説得をします」 彼女は嘘はつかないだろう。
「では、ラクチェには彼を説得しに出向いてもらう。それは――」
その名が紡がれた途端、ラクチェの顔色は、青ざめたを通りすごし、白いとさえ呼べるものになった。 紫の瞳が一瞬色を失い、薄くなったような気分さえする。 けれども彼女は頷いた。
「承知しました……セリス様……」
その瞬間さえ、彼女は何が自分を凍りつかせているのかに気がつかなかったのだ。
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