未来を見る力を持つ者 それは、神の力によるものだ 民衆は皆それを神の代弁と言い その力を持つものは、尊ばれる――
未来視
「何度言ったらわかるんだよ!この化け物!」 幼い言葉は容赦なくそそがれ、その少年を苛んだ。 失敗した、と少年は思った。もうこんな風には話さないとつい先日も思ったばかりであった。 だが未だ境界線を判別し辛い中、少年は再びその愚を犯してしまったのだった。珍しいということは、ただでさえ避けねばならないのに。 金の髪はただでさえ珍しい。 その髪を土埃に汚しながら、少年は倒れこんだ体を起こした。質素な衣装を汚した埃を無言ではたき落とす。 その態度が気にいらなかったらしく、少年を囲んでいた一人が「おいっ、何様のつまりだよ」と声をかけた。 (別に、僕は僕でしかないんだけど) そういう意識が、自然と少年たちを苛立たせているのだろうと、少年はわかっていた。だが理解しても実感することは難しいわけで、生憎今日もこのように怒らせてしまっている。
「こらお前たち、何をしているんだ。掃除は済んだのか?」 微かな足音とともに飛んできた声に子供たちは顔を見合わせた。教会の外壁を掃除している時間だったのだ。だというのに少年がまたも変なことを言い出した。そのため、すっかり掃除のことを忘れていたのだ。 「俺たちは終わったけど、コープルがまだなんだよ!」 いいわけめいた声に、重く錆び付いた音を立てて神父が出てきた。実際には、神父というのは間違っている。彼は正式な神父の資格を持っているわけではなったからだ。だが神父(そう呼ぶことにしよう)は非常に深い信仰をもつ僧であった。 「掃除は、済んだのか」 神父は掃除をさぼるととても怖い。子供たちはこくこくと頷いた。コープルと呼ばれた少年は黙って顔を俯けた。 「わかった。先にお前たちは中に戻って次の作業を行っていなさい。何をするかはわかっているだろう?」 囁きあいながら去っていく子供たち。コープルはそれに視線もくれず静かに神父に頭を下げた。
「どうして謝るのかね、コープル」 「僕は、掃除ができていません」 確かにそうであった。掃除をするはずであったが、子供たちとのトラブルでそんな時間はなかったのだ。 「そうだな。手を出しなさい」 この時、庶民の子供のしつけはどこであっても鞭であった。それは教会もまた例外ではない。神父は腰帯に留めていた小さな鞭を手にとって、コープルの手を一度叩いた。 よい音などならない。ぴち、と小さな音が上がる。だがよい音のなる鞭など神父もコープルも見たことはなかったので、これが最も鞭らしい音なのだと思っていた。 コープルは、ぎゅっと目を瞑っていた。 「お前の罪は清められた。もう掃除を疎かにしてはならない」 「はい、神父様」 「よろしい、ではお前も戻りなさい」 どうしてできなかったのか、と神父は聞かない。聞いたら、ほかの子供たちを鞭打ちすることとなると知っていたからだ。 神父は優しい性格だったので、子供たちを何度も鞭打つのは好きではなかった。 コープルを鞭打てば、たった一人で済んだのだ。
「神父様」
神父はぎくりとした、教会へとはいっていこうとしていたコープルが神父のほうを見ていた。 「今日は、街に下りないでください」 「何故だね」 言葉が震えていたのを神父は知っていた。本当は聞きたくないのだ。 だがコープルは神父の葛藤には気が付かないように、言葉を続けた。 「帝国の軍隊が視察に来るんです」 コープルはそういって教会の中に入っていった。 それを見届けた後、神父はぺたりと膝をつく。 そうして、ぼろぼろと泣いた。
夜の文字つづりが済んで、コープルはモニュメントのない祭壇に面していた。コープルは祈る対象をまだ一人しか知らない。 それは自分を守護するひとつの神であった。そして己によく似た連なりであった。 (神様) 『どうしましたコープル』 聞こえない声がした。だがコープルはまだ「聞こえるの」と「聞こえないの」区別がつかなかったのでしばしば困惑の種になる声である。 そして、この声は何の役にもたたない声だった。コープルを取り巻く予視の力と似て非なる存在だ。何が異なるかといえば、実用的ではないということだろうか。 ただ、名を呼ぶだけの。 『コープル』 コープルはそれを神様だと思っていた。 (明日、大きな人がやってくるんです) コープルは自分の中で整理をつけるためにその声に呼びかけた。何度呼びかけても返答は返らない。だから、これは只の整理のための模擬の呼びかけだった。 (母さまを、知っている人です。母さまを看取った人です) コープルは母親が嫌いだ。 母親が踊り子であったということは、シスター達のコープルへの無視へと繋がった。神父が自分を構わなかったならば、そしてこの声が聞こえなかったならば、きっと寂しくて死んでしまっていた。 記憶にもない母親だ。恋い慕うことなどできはしない。 踊り子という職業が尊敬するものだとも思えなかった。 だから母を看取った人がやってくる・・・というのにコープルは実感を覚えられない。 (その人が、僕を外へと連れ出すんです) どうしてなのか、コープルはわからない。 コープルはその身がずっと教会の中に埋没することはないと知っていたので、出て行くのは構わない。この教会にある以上に勉強できたらもっといい。もっと神学の勉強だってしたい。 だが、この憂鬱さとは別の話だ。 (僕は、これから知っている明日を迎えます) 実感はしてない。細部などわからない。でもコープルにとってそれは絶対的に決まっている未来だった。 コープルはそれを知りながら歩く。逆らいたいとは、思ったことがない。
明日、大きな人がやってくる。母を看取った人がやってくる。 自分を連れに。母との約束を果たすために。 ――自分はその人を、父と呼ぶことになる――
どうしてかはわからない。血の繋がりのない人だ。それに好意を持つのは構わない。何故父と呼んで慕うのか。 コープルは明日を知っている。 だが明日の感情は、けっしてわかることはない。 コープルは膝まづいた身体を起こし、寝室へとむかった。考えてもわからない。明日が来るのを待つだけだ。
途中、ふと神父の部屋を覗いた。神父はいなかった。 彼が「よく」立ち入っている秘密の部屋にむかってみることにした。 神父はコープルを鞭打った後や予視の力を見せたとき、よく……いや必ずこの部屋に入った。この部屋の存在を、他の者は誰一人知らなかった。
コープルは、暖かな光を放っている部屋を、そうっと覗いてみた。神父はいた。 神父は冷たい部屋で崩れ落ちて、ただひたすらに祈りをささげているように見えた。 でも本当は祈ってはいない、嘆いているのだ。そして、呪っているのだ。 コープルは少し悲しくなった。 一心に呪う神父の姿が悲しかった。 そして、憐れんでいた。 コープルは静かにその場を離れ、今度こそ部屋に戻った。冷え切った布団を頭までかけて寝ようとする。 寝息ひとつ、きこえない。
(神様、神様) 神父は古ぼけた杖にすがりつくように泣いた。どんなに力を込めても決して凡人には折れない杖だ。 神父はずるずると鼻をすすって、溢れ出る涙を拭いもせず泣きじゃくっていた。 (何故ですか、神様) 神父は呪っていた。彼はとても信仰厚い僧だった。 (何故あのような小さな子供に、あのような重い力を授けになったのです) 神父は常にそのことを問い続けていた。答えはまだわからない。 (何故、何故) 神父はぎりぎりと古ぼけた杖を抱きしめた。その先端につけられた赤い宝玉は今は沈黙を保っている。
聖杖バルキリー。
(何故、ブラギの子を我が元に降ろしになったのです) あの少年がそうではなければ……たとえばあの金髪がくすんだ茶色の髪で。あの瞳が枯れた大地の色で。適当に愚かであり、貧しい農民の戦争孤児であったなら。 おそらく私は、あの子供を愛せたでしょうに、と! (ああ、誰かあの子を私の前から消してくれ)
お願いです。と神父は神に祈った。神の名を呼んだ、かすれた声で。 他の誰にも聞こえてはならず、まだこの枯れた大地では排他される、その御名を!
「ロプトゥス神よ!」
それは確かに叫びだった。 だが、それを聞いていたのは神父一人であった。 憐れで優しい、一人の男だけだった。
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