一面の砂漠と不毛な大地 広がる山の光景が失せて平地が広がる 熱気と熱い風が吹く
イードの砂漠
ここにも花は咲かない
花を一輪
イザークの南は荒れた平地が続く。イード砂漠に近づいていくからでもあり、十数年前のイザークとグランベルの戦争の結果でもあった。 風に乗って乾いた砂の香りさえ運ばれてくるのは、リボーがイザークの国境線だからである。 時は六月。雨季であった。
高い山脈、そこに無造作に立ちながら地上を見下ろしていたのは一人の男。 その髪は風の翡翠。その瞳は神の金。 眼下に広がるはレンスターの大地。肥沃な土地と踏み荒らしてゆくアーマーの影。 荒れた岩壁に立って男は瞳を伏せた。次の瞬間にはその姿はない。
その跡には、緑の芽が顔を出している。
風の音がざわりと動いた。 湿気を含んだ重い空気。青空にぽつりと浮かんだ白い軌跡。 空を飛んでいたのはペガサスである。だがばさばさとその大翼は空気を荒らしはしない。風に乗り、風と共に空を翔る。それがペガサスであった。 力強さにかけてもペガサスの最大の強みはその静けさである。故に偵察にはもっとも向いているといわれていた。実際過去シレジアは孤立した独立国でありながらもっとも情報には長けている。 戦場においての情報の最先端。それをジルフェと共に伝える存在であった。
「イード……」
広い空に呟かれた声はさらりと拡散して消えていく。天馬に騎乗した人影が遠い砂漠の中心に立つ神殿を見た。小高い丘の上に設えられた神殿。 その向こうに広がるはオアシスフィノーラ、そしてリューベック、緑深き故郷シレジア。
「ダーナ、メルゲン」 南のオアシスにして伝説の残る大地、トラキア半島へと続く関門の城砦。 ダーナの先には広大と広がるグランベル本土が、メルゲンの先には肥沃な北トラキアが続いていた。 トラキア半島は海を隔てた先だ。 荒れたイザーク、不毛なイードを越えた先には豊穣を約束する豊かな大地が広がっている。
「レンスター……」
天馬に乗ったシレジアの王女、フィーは偵察の目的であるレンスターを視界に納めた。レンスターは北トラキアの中でも特に豊かな大地に囲まれていると一見で分かる。 小高い丘に設えられた頑強な城。 「あれは……不味いわね」 そのレンスターは、フリージの旗を掲げた軍に取り囲まれていた。
フリージとはグランベルにおける公爵家。北トラキアにおける王家である。アルスターにその王家を置き、北トラキアが帝国領と呼ばれるのはそのためだ。 このレンスターも同様に帝国領であった。最近までは。 レンスターの王子であるリーフが、逃亡劇の中から兵を集めてレンスターを奪還したのはあまりに有名な話である。それが、風前の灯火であるということも。 防衛線であるからまだ持ちこたえている。レンスターの城はどこへも空からやってくる長年の敵を持ち、度重なる戦役で一瞬たりとも防備が疎かにされたことがなかった。 統治するのが帝国の将であっても、配下である者たちはそれが日常となっていたのだろう。レンスターの防備は固い。 15年前は1年で落ちた城であった。 キュアンを亡くし、ゲイボルクを失い、絶望の混じる心の中で1年で国王は亡くなった。 今リーフを据えた防衛線はそれよりも端々辛いところもあるだろう。だが精神面では何もかもが違う。 レンスターは持ちこたえる。だが時間の問題だ。
フィーは天馬を低くした。それだけでは偵察の役目ではない。 敵兵の位置、軍備の状況。できればレンスター側の状況も。 弓の位置、敵兵の視界を注意しながらフィーはペガサスを下ろしていく。途中にある山に姿を潜ませて近づく気であった。 そんなフィーの視界の端を、ふと白いものが映る。 「あら……?」
は、っと意識が戻った。 くしくしと目元を擦り少年は顔をあげる。日差しはさんさんと差してはいるが、少年の顔元は日陰になっている。それが心地よい睡眠をもたらしたのか今まで眠りに落ちていた。 手にぐるぐると巻きつけた手綱の端に、栗毛の馬が繋がっている。影はその馬がつくっているものだった。 気立ての良い雌馬だった。主人になりたての少年にもかいがいしく世話をする。ひょっとすると子供か何かと勘違いをしているのではなかろうか。 銀の髪を揺らして、少年……アーサーは馬の首に手を伸ばして微かに擦り寄る。駿馬からは草の匂いがした。草の匂いはシレジアを思い出させて、アーサーはこの馬がとても気に入っている。
既に季節は雨季だった。シレジアにもこの季節は暖かい雨が降る。おそらく緑は次々と芽吹いているだろう。 イードの砂漠には雨が降るのだろうか? アーサーは暑いのが苦手であった。湿気も苦手ではあるが暑いよりはいい。 リボーの周辺はまだ草が生えている。砂漠にはそれが一片も生えてはいないそうだ。 よくそんなところに住むものだ。それともそんなところだからこそ秘密の神殿なぞ建てたのであろうか。
アーサーは馬の手綱を引いて立ち上がった。いつの間にか日が傾いてしまっている。 フィーの姿がないとどうにもアーサーは時間の区別がつけられない。フィーは今偵察に出ているのだ。早く帰ってこないだろうか、とも思う。 「行くぞセティ」 緑の匂いのする彼女を引いてアーサーは城への帰途へついた。
「トラキアの花?」 ふと、その途上アーサーは足を止めた。知っている声であったからつと耳に入ってきたらしい。そうでなければアーサーは他人の声に立ち止まりはしない。 漆黒の髪をもった少女はラクチェといった。スカサハの双子の妹である。 涼やかな声をしたラクチェの声は聞き触りが良い。アーサーに最も親しんだ姿は戦場で剣をとっている姿であるが。ラクチェは茜色をした髪の少女と話しているようだった。 「薬草を買いに行ったときに聞いたんだけどね。山間にしか咲かない綺麗な花があるんですって」 アーサーは行儀良く待っているセティに視線を向けた。賢い馬は主人の意向を汲んで再び足を進め始めた。背中を追うように言葉が届く。 「花か……ラナには似合うよきっと」 「もう。ラクチェみたいだって思ったのよ……」 それきり声は遠くなった。
厩に入って、アーサーはセティを見上げた。草の匂いがする優しい生き物。 シレジアのイメージは、アーサーにとって白い雪と緑の樹木だった。そして、幼少時の記憶はそれのみに尽きる。 そして、山間を進んでいってフィーに拾われ、荒野の続くイザークを辿った。
アーサーは花を知らない。 花を見たことがない。 花を知ることがない。
「トラキアの花……ね」 北トラキアは豊かな大地に花が咲き乱れるという。 アーサーはだが、それを夢想しなかった。
雨が降る。 イードの砂漠に雨季が来る。 足をしかと受け止めることのない砂漠に降り立ちながら男は神殿を見上げていた。 雨がさらさらと、ざあざあと男に優しく降り積もる。
空を仰ぎ見ては、男はふと消えた。
「アーサー!」 イード神殿に少数部隊が回っている間、暇をしていたアーサーはその呼びかけに振り返った。鮮やかに緑の色を宿した少女。 「フィー、戻ってきてたのか」 フィーの姿は鎧姿で、戻ってきたばかりだというのが直ぐにわかる。天馬に乗るのは彼女には椅子に座るよりも慣れ親しんだことだと聞いてはいても、やはり疲れるのではないかとアーサーは思った。 アーサーはいわゆる乗馬の練習をしていた。シレジアに馬はいなかったので彼は馬に慣れていない。そして、馬上から敵を撃つということは、思っていたよりもずっと難しいことなのだ。 気立てのよいセティのおかげで既に一人で練習を出来るほどには慣れてはいたが、それでもまだ戦場に出れるほどではない。戦場での馬の機動力はアーサーにとって必要だった。だからその訓練に躊躇いは抱かない。
セティから降りてアーサーはフィーを迎えた。彼女もマーニャを連れている。 「セリス様は?」 「イードの方に。俺達は居残り……オイフェさんが残ってるぜ」 「そっか。もうオイフェさんには伝えたのよね」 互いに何も言わずに連れ立って歩く。視界は岩や砂ばかり。この向こうにはイードの砂漠が広がっている。 さらさらと降っていた雨はもはやあがり、空は晴れていこうとしていた。
「ね、アーサー。ちょっと乗って」 アーサーはセティの手綱を引きながら不思議そうな顔をした。ペガサスに乗れ、それは飛んでいくということだ。そして、同時に偵察ではないということだ。 馬の手綱を絡まないように留めると、セティはふんふんとアーサーに鼻先を向けてくる。城で待ってろ、といえば通じたのか踵を返して戻っていった。
「本当に賢い子ね。ちゃんと名前つけてあげなさいよ」 マーニャにまたがったフィーの後ろに乗りながら、アーサーは気詰まりしたような顔をした。いやとても話せはしない。 「そのうちな」 「面倒くさいなんていうことじゃないでしょ」 後ろに乗って顔が見えないことをいいことに舌を出した。とても話せはしない。やはり変えてしまうか。 音をたてずに、風の音だけを聞きながら浮遊感に見舞われる。
高い空だ、とアーサーは思う。 地面にいるよりも、空に近づいている時のほうが空の高さを感じる。 「どこへ行くんだ?フィー」 ペガサスはリボーを置いて南、レンスターの方へ向かっている。それはアルスターの方角ということで、自然とアーサーの胸が詰まった。 「アルスターじゃないわよ」 だがそれは察知されたようで口をつぐむ。一人や二人で向かってどうなるわけでもないので、それは納得が出来る。
どこか、と問うことを止めてアーサーは流れていく景色を見ていた。 風と共に流れていく雲。遠くなった険しい山々。後方に見下ろす砂漠。 視界の先のトラキアは緑の多い景色だった。シレジアの緑とは、また違う色だ。 暖かい広葉の色。常緑の色ではない。 シレジアに無かったものがあるのだろうか。シレジアにあったものがないのだろうか。おそらくそれはこれからもっと体験していくこととなるのだ。 北トラキアに近づくたびに濃厚になるフリージの気配。ざわりと騒ぐ血に眩暈がする。 (フィー) 解放軍に参戦するのだ、と言った彼女。 この思いは軽蔑の的だろうか、何か答えを言って欲しいのに。 (おそらく言って欲しくはない)
「ほら、アーサー!」 明るい声と共に感覚が引き戻された。そこは岩壁ばかりの丘陵だ。視界の先にはトラキア半島が広がっている。だが、何があるようにも見えない。 「何もないぞ?」 「もうっ!あんたの目はどこについてるのよ!」 ぐるりと振り向いたフィーがアーサーの長い髪を乱暴に掴んで、そのまま正面に向き直らせた。 フィーが、何を言いたかったのか……。 それは、アーサーには一瞬わからなかった。 「白い草?」 「花よ、バカ!」
花?
細い茎に、それを包み込むような葉。 白く開いた花弁。 アーサーはこれでも本が好きだった。勉強家とも呼べるくらいに。
確かに、それは花だった。 アーサーが、始めてみた花。
「あんたに少し似てるわよね」
フィーが笑って言った。
「トラキアの花って言うんだって」 フィーは、あっさりマーニャを返して帰途についた。長居していられる身分でもない。 「綺麗だったでしょう?」 「それは、俺も綺麗ってこと?」 返答の代わりに肘鉄がアーサーを襲う。ごほごほと咳き込んだ後、アーサーは背中越しにフィーに抱きついた。マーニャが揺れる。 「ちょ、ちょっとアーサー!どこ触ってんのよ!」 「ありがとフィー」 フィーは、とても可愛い。アーサーは心底思った。生命力に溢れる姿はキラキラと眩い。 花も。 自分のようだ、とフィーが言った花も、荒れた山岳にどうどうその花を開かせていた。 凄いじゃないか。アーサーは思う。生きてるって凄い。 フィーの体温、マーニャの力強さ。どれもあったかくて好きだ。
「あ、フィー。下見てみろよ」 「何よ?」 「ほら……緑」 アーサーが指差した先には、ちらりほらりと緑が見える。いつも思うが、アーサーはこういうところに目ざとい。 「本当……今まであったっけ?」 「出てきたんだよ……あそこらへんは砂漠だ」 砂漠?フィーは耳を疑った。砂漠といえば一面砂だ。しかし、位置取りを確認すると、確かに視界の先は一日前は砂だらけであった場所である。 「雨が降っただろ?」 雨季に、急いで緑が芽吹く。砂漠の植物は忙しい。 「明日にはもう、花が咲くよ」 アーサーはそっと目を閉じる。花が咲く、ということを教えた人は誰だっただろう?南シレジアに花は咲かなかった。誰も花を語る人はいなかったはずなのに。 (それは大地の愛という形) 砂漠はいつも乾いているのに、雨が降るとそこは緑が満ちていく。 そうしてそこに、花が咲くのだ。
「そこに咲く花は、フィーに似てるよ」
再度ぐらついたマーニャに、アーサーは笑ってしがみついた。
雨が降る。それは天の恵みの証。 それを身に受けながら、男は緑を見下ろしていた。 その身体は万理に祝福されたかたち。その瞳は風の翡翠。 宿し始める蕾を感情なく見つめる。
押し付けがましい、愛は嫌いだ。
けれども愛しい子供達のために、さぁ、大地よどうか、と。
花を一輪、咲かせておくれ。
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