エフラム、という男について考えてみる
奴は友邦国ルネスの王子だ 双子の片割れ、王太子
エフラムという男を表現するのにマキ・ヴァルに名高い詩人はこう評した ”気高く恐れを知らぬ王子” 随分と高く買われたものだ、と思いながら特に否定もしない
奴は、動じない男だ、というのが私の見解である 感情を見せないわけではない 欠点がないわけではない 人間味が、ないわけではないが
王としても 人間としても 男としても 戦士としても
奴は動じない男であり それ故に完成体で だからこそ、人が奴に引寄せられる
……多分、私もその一人で
エフラムのことを考えると苛立たしい 負けたくない
これが、最後の
「隊を二つに分ける、突入組みと外組みだ。今から挙げる者はこちらへ来い」 一人、一人名を呼ばれ双聖器を授与される。そんな光景を瞳の端でとらえながらヒーニアスは弓の弦を張りなおしていた。万全の状態にしておかなければならない。 その傍らには蛇弓ニーズヘッグが置かれている。持たせるものを選べとエフラムに渡した聖器は手ずから己の手に戻って来ていた。 弓の具合が満足いくものになった頃、魔殿の前にはヒーニアスを始めとした精鋭たちの姿のみとなっていた。儀式までに時間は無い。ヒーニアスは準備を終えた。
「ヒーニアス」 少し低くなった声にいつの間にか慣れていた。常から笑顔とは言えない顔が、一層渋面を作るのがわかる。 「……エフラム、何だ。私は既に準備は出来ている」 思えばエフラムに対してヒーニアスが愛想良く接したことなど終ぞない。だがエフラムは一度もそれに対して何か反応を示したことは無かった。エフラムからすればヒーニアスは己を嫌っている。それだけなのだろう。 「今回の指揮をお前に任せる」 ヒーニアスは眉を顰めた。これまでにも合流後、後衛の指揮は度々ヒーニアスに任されてはいたが、それをわざわざエフラムが言いに来たことはない。第一、この男は常に前衛にいるのだから後衛は必然的に他が名乗り出ることになるのだ。 だがあえて口にしたこと、そしてこの度の出陣が少数精鋭であり、前衛後衛と分ける暇さえ存在しないことが容易にヒーニアスをその発想へと結び付けさせた。 総指揮を取れと言っているのだ。 「今回戦い方はある程度個々に任せるから、突出や孤立を避けるくらいでいい。……双聖器を持つもののみで突入する」 「エフラム、お前はどうするつもりだ」 今更、リオン皇子の死に際に立ち会いたくないなどと言い出すような男ではない。友を死なせるならば……自分が殺す。そういう男だ。 「俺は」 「エフラム様、突入の準備が整いました」 「ああ、今行く」 「エフラム」 言葉が邪魔されることを待ちかねていたような風体だった。 ヒーニアスは語気鋭く真意を問うが、エフラムは他へと向けた視線をヒーニアスに戻さない。小さな……ヒーニアスに聞こえるくらいの声で告げた。 「――見逃せ、ヒーニアス」
何を? エフラムは愛馬を連れて魔殿へと赴く巨扉へと歩いていく。その手には炎槍ジークムント。 胸の中で得体の知れないざわめきが広がった。
魔殿は昏い神殿だった。 フレリアには元々魔道師が少なく、魔道の素養を持つものもほとんど生まれない。モルダの家系などはその稀な例であり、それは非常に珍重された。 只でさえそのように魔道に関する意識が薄いのに加えて闇魔道は伝説の魔王の眷属である。ヒーニアスの印象も悪い。 エフラムはそうではないのだろうか。 闇の樹海に立ち入り蔓延る魔物たちを退け、こうして進むエフラムの横顔はまるで怯えることなく、平気そうに闇の中へと踏み込んでいく。 灯りは奇妙なことに、闇色の輝きをしていた。 「兄上……酷く空気が澱んでいます」 「ああ、これまでも感じてきた気配だが……今までとは違って酷く深い。……ミルラ、大丈夫か? 先に話したように、今回は俺はお前を守ってやれない。エイリークといるんだ」 「はい、エフラム……あの」 「どうした」 「――いえ、いいえ。……まがまがしい気配がします……気をつけてください」 幼い少女はそう呟いてエフラムの傍を離れた。 エイリークの傍らに向かうその姿を見ていても、彼女が竜人であるというのは未だに信じがたいことだ。だが彼女は背に生やした翼で飛ぶことも出来るし、金を塗りこめたような竜に化した姿も見ている。 双聖器さえ持つことは無いが、竜は魔物に対して絶大な力を示すらしく、彼女はエフラムについて魔殿までやってきているのだ。
扉を目の前にして、エフラムが振り返った。傍にはジークリンデを携えたエイリークを従え、碧の瞳が輝きを増す。 誰も軍列を整えはしないで自然と円を作る。これは闇の樹海に入ってからエフラムが言ったことだった。『これは戦争じゃない』ヒーニアスは、それでは指揮系統が乱れると懸念したが互いに深く親交を持つこととなった精鋭達は更に洗練されていた。 相手はどこからともなく無尽蔵に沸いて出てくる魔物。必然的に誰かと背をあわせて戦う戦の中では効果的に活きた。 「この先は、おそらく数多くの魔物が控えているだろう。左右に展開して奥を目指す。 各人状況に合わせた機転を要求する。 中央突破にはターナ、君に任せる。ヒーニアスを同行させろ、全体行動に関してはヒーニアスの指揮を遵守」 何人かが訝しげに顔をあげたが、エフラムは理由を説明しなかった。その代わりにひらりと馬に跨る。 氷剣アウドムラを抱えたヨシュアが軽く口笛を吹く。不謹慎な行動だが、悔しいことにそれくらいエフラムの動作というものは常に絵になるものだった。 行動が、決して洗練されているわけではなくむしろ粗雑で、自分がどう見えるかなど考えてもいない。 むしろそういうものとは無関係だと自分を位置づけている節さえあるのに、絵師がまず題に選ぶならばこの男だろう、と思った。 エフラムの持つどこか完成された”人間らしくなさ”が惹き付けてならないカリスマだった。やはりヒーニアスはエフラムが好きじゃない、と思い返す。 鈍い音がして、魔殿の扉が開く。 ――そうだ、まだ返事を聞いていないのに。 ヒーニアスは馬上のエフラムを見上げた。彼は後ろを振り返っていたが、ヒーニアスを見てはいなかった。
「許そう、ノール」
その名には覚えがあった。聞きなれてはいない。 エフラムとジャハナで合流した際、彼が伴っていた中でもっとも異質であったのがノールという男だった。 エフラムは、男はグラドの闇魔道師だと言った。魔石に関する情報はその男から聞いたとも。それ以上に深く言及することは無く、またその男も他人に多く語ることは無く、どこか陰惨としており、常に自責気味である。 ――だが、エフラムはその男に魔典グレイプニルを与えた。 誰もがそれを訝らなかった。エフラムのノールに対する態度は決して好意的ではなく、どこか棘をも感じたがグレイプニルが彼に渡ることをエフラムは始めから決めていたようだった。 動揺したのは只一人当人であって、何か問いかけるような視線をエフラムに向けていたのだ。
エフラムの言葉によって、周囲の視線はノールに集まった。ノールは常に黒衣を纏った闇色の男だ。背は高いが常に俯くように歩くためにそうと思われない。整った容貌には消えない翳が付きまとった、そういう男である。 ノールは耳を疑うかのような様子でエフラムを見つめていた。それに構わず扉は開く。 奥から感じる篭もるような闇気に、ノールは我に還ったように頷いた。 光輝イーヴァルディをその手に抱いたナターシャが、一瞬の逡巡の後に名を呼んだが気づく様子は無い。 足早に長衣を翻し、エフラムの白馬の後ろに乗ろうとする。エフラムはどこか硬い表情でノールを引き上げると困惑の眼を向ける一行に一瞬だけ視線をくれる。 「来る。勝つぞ」 途端エフラムは馬首を返した。走り出すその背中に誰もが咄嗟に駆け出した。 ターナの後方に乗ったヒーニアスでさえ釣られたように身が傾ぐ。走る前にペガサスは滑空を始めている。 誰もが何故、と問いかけたいのにエフラムの背中をその一切を封じていた。
これは魔法だ。 ヒーニアス達は、この戦争の中であまりにエフラムの背中を見過ぎている。
「ありがとうございます、エフラム様」 誰かの声がした。
外から構造を推察したのは大分あっていたようで、案の定中央は空洞の回廊である。ターナが行くのは中央で、敵の姿は無い。ヒーニアスは全体に視線を走らせた。弓使いは目がよくなければやってはいけない。 左右で火花が、魔道の輝きがちらつき始める。魔物たちと交戦に入ったのだ。 「あれは……先ほど見たような竜か。腐敗しているな」 「お兄様、近くに弓兵がいるみたい」 「わかった。ターナは周囲に目を配れ」 胸のざわめきは消えないが、既に戦は始まっている。ヒーニアスが長弓を強く引くと骸骨兵の骨がきしんだ音を立てた。
――始めに気がついたのは、ラーチェルだった。
「エフラム、お待ちになって――それでは他が追いつけませんわ!」 聖杖ラトナを手にしたラーチェルは、常より怪我がないかと見ていたせいもあった。エイリークやゼト、デュッセルはエフラムとは違う右翼に回されている。……よって気がつくのが遅れた。 ヒーニアスが視線を送ったとき、人一人増えているというのに天馬よりも早く馬を駆けさせて、エフラムは一人突出していた。後方は魔物への対処でエフラムに追いつけない。 ラーチェルの悲鳴のような声にヨシュアとサレフがはっと視線を送る。既に彼らの視界は魔物で埋まっていた。 エフラムとノールは彼らの進行方向にいる魔物へとその攻撃を割き、一騎頭を出している。同じくラーチェルの声で視線を送ったターナが短く悲鳴をあげた。 「声を上げるな、ターナ」 ヒーニアスは己の言葉に驚いた。勿論、ヒーニアスはエフラムを制する場所にいるのである。右翼のエイリーク達は気がついていない。 「だってお兄様エフラムが」 「エフラムの奴が手荒に暴れていったとは言え左翼が薄くなっている。私を向こうで降ろしたら、お前は左翼のカバーに行くのだ」 ターナはヒーニアスの戦略に強い信頼を持っている。……そこを、逆手に取った発言だった。ターナは勿論、ヒーニアスに何か考えがあるのだと思ってそれを了承した。 ヒーニアスが地に下りる。飛び去るターナには目もくれず、ヒーニアスは苛立った。
(始めから、そのつもりだったな、エフラム!) これでは当然、指揮などできない。 やはり、グラド皇子は正気であったのだろう。そうでなければエイリークを置いてこんな単独行動をするわけが無かった。 いつも傍にいる竜人の娘はきっと感づいている。だからエイリークの傍にいて、エイリークがそれを知ることが無いように、またグラド皇子が最後まで”可哀想な犠牲者”でいられるようにしたいのだ。それをエフラムが望んでいるから。 ノールを連れて行ったのは何故だ。それは恐らく奴がグラドの闇魔道士というのが鍵だ。おそらく何らかで荷担していてそれゆえ己を責めているのだろう。 それは私情だ。ヒーニアスは毒付く。 それでもこうして一人だけで援護に向かおうとしているあたり、自分の甘さで驚きだ。 魔物たちは突出したエフラム達に殺到しているらしい、ヒーニアスの視界は黒溜まりの闇である。ニーズヘッグにつ、と指を寄せると指先が輝きだした。よし、使える。
ヒーニアスは走り始めた。エフラムの莫迦が、と口元に呟きながら。
さけび、ごえが きこえた。
ヒーニアスは耳を済ませた。 視界の先では闇がすっかり晴れていてしまっている。何が起こった? 後方での剣戟も、魔法の輝きも唐突に潰えた。 原因はいつでもエフラムなのだ。ヒーニアスは短期間のうちに悟った。
「まて……駄目だ」
ヒーニアスは、足を止めた。胸のざわめきはこうした今も止まろうとはしない。収まらない。 見守る影が一つ。これは灯りさえなければ消えてなくなってしまいそうな黒だった。風が無く動かない長衣は、まるで置物のように静かである。 横たわった誰かに(何かに?)必死に話しかける人影があった。暗闇にも明るい碧の髪。纏った黒い鎧だけが暗闇に溶ける。
エフラム。
「目を閉じるな!……嫌だ、嫌だ。嫌だ!」
ヒーニアスは、瞳を閉じた。それでもうエフラムの表情は見えなくなった。
「俺が、助けてやる!絶対に……絶対に、何か方法がある!必ずそれを探し出してやるから……!!」
ヒーニアスは、耳を塞いだ。それでもうエフラムの叫びは聞こえなくなった。それに答える誰かの声も、聞こえなくなった。 見てはいけないものだった。 聞いてはいけないものだった。
エフラムは、動じない男だ、というのが私の見解である。 感情を見せないわけではない。 欠点がないわけではない。 人間味が、ないわけではないが。
奴は動じない男であり。 それ故に完成体で………………
知ってはいけない、慟哭だった。
「死ぬな……リオン!」
「兄上……リオン!」
エイリークの声が遠くやってくるまで、だからヒーニアスは何も見なかったし何も聞かなかった。 (きっと、これが最後だから)
ただの17歳の少年という、エフラムの最後の欠片。
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