一人の女が歩いている その顔には疲れが浮かび、疲労しきっていた だがその身体から放たれる生命力が彼女を美しくしている 動けば動くほど 女は美しかった
神請いの血族
「クロード様」 シルヴィアは、これまで生半可な生き方はしてきていないと自負していた。 領主の横暴で見るに耐えない土地で起きた殺し合いも生き延びた。 何一つ不自由のない賢主に愛を囁かれたこともある。 さすがに人肉を食べて生き延びるなんてことはなかったが。 造りは幼かったが、シルヴィアはその生命をかけて踊る女であった。一心にかけて踊る女であった。その姿は誰もかも魅了した。 そうであるからこそ、様々な修羅場さえ生き延びてこれた。生きる以上に立派なことはない、とシルヴィアは思ってきた。
だが今シルヴィアは絶望を感じている。 こんな思いが生まれたのは初めてだったのだ。 優しい空間。軍だというのに空気を包み込む淡い感覚。 シルヴィアは、人というものは想いあって、信頼を向けながら生きているということをこの軍で初めて知ったのだ。 だからこそ彼女は、絶望を感じている!
「クロード様、どこですか……」 ざぁ、と風が吹いている。 それでも、寂しい風だ。悲しい風だ。そんな風は見たくないよ、とシルヴィアはかぶりを振った。 レヴィンはどうしたのだ。この風では、シルヴィアをクロードの元へ誘ってくれないではないか。 レヴィンはシルヴィアにとっての優しさの象徴だった。 愛には育たなかった恋。天馬騎士の彼女と傷つけあうことしかできなかった恋の姿だった。 恋の思いは残像と化したが今でも心の特別を占めているのは確かだ。 だからシルヴィアは、この風に問いかける。 「レヴィン…どうしたの。教えてよ……クロード様のところまで」
柔な布履きは既にぼろぼろだ。足の皮膚が破れていく。ほとんど何も持たず飛び出してきたので頼りになるものはろくにない。 シルヴィアは空を見上げた。赤い赤い空だった。いまだどんよりと曇った空が、血の色に染まっているのだった。 この、死体に溢れた王城の空は! シルヴィアは吐き気を感じていた。今まで戦場だって渡ってきたが、こんなにも酷い惨状はあるものか。 なんといっても、そこに倒れているのは知っている者なのだ。 重いスープ鍋を運んでいたとき手伝ってくれた新米騎士があおむけに倒れている。片腕を失った重騎士は無骨な顔を真っ赤に染めて愛を告白してきた者だ。空いた時間に出向いた花園で出会った、故郷に婚約者を残してきた青年も、みんなだ! こんな酷い惨状があるものか。 シルヴィアはたった一人の人を探しながら……また進んでいくのは恐ろしい。 この先に指揮官に似つかわしくないシグルドの死体をみつけたら?フュリーの天馬が真っ赤に染まっていたら笑えるわけがない。レヴィンはこの風のように悲嘆にくれているのか、それとも。 なにより、クロードはどうなったというのだ! シルヴィアの瞳から涙が溢れた。あの金の髪に再び指を絡める時を待ち望んでいた。
「反逆者達の生き残りか!?」 シルヴィアは呆然と振り返った。バーハラの兵である。彼らは反逆者というにはあまりに軽装なシルヴィアを見て困惑したようだった。 怒りがこみ上げる。絶望を秘めた怒りだ。 こんな。 こんな名前も知らない者達に、あんなにも優しい人たちが絶望へと曝された! がむしゃらに剣を抜いた。守り刀に、と渡された魔法の剣。人の血など吸ったことのない切っ先を、怒りとともに振り上げた。 だがシルヴィアは踊り子だった。戦場を駆けることない者だった。驚いて飛び退った兵士に、かすることなく剣は空を切る。 「やはり、反逆者の一人だな!」 兵士が剣を取った。どこかゆっくりとした動きを、シルヴィアは涙に濡れる瞳で眺めた。 (クロード様) 最後に、クロードの姿が見たかった。長身の背中に飛びついていきたかった。意外と大きな手、それに抱きしめて欲しかった。 シルヴィアの視界が涙で埋まる。 彼女はただ剣が自分の体に埋まるのを待ち続けた。 「……シルヴィア」 いとおしい声がした。幻覚でもいいからそれに浸りながら死んでいけるなら幸せだ。 「シルヴィア、もう平気ですよ」 穏やかな声だと思う。もっと狼狽してくれたらいいのにと思っていたが、とても好きだ。 「……だから、私に貴女の瞳を見せてくさい」 シルヴィアは濡れた瞳で見上げた。 「クロード様……?」 「はい」 「クロード様」 シルヴィアの小さな手が白い法衣を掴んだ。かたかたと震えていた。 「クロード様、クロード様、クロード様……」 クロードは手を広げた。その腕の中に、飛び込んでいく。 涙で濡れていたせいか、やけに冷たく感じた。
「クロード様、一緒に行きましょうね」 その夜、シルヴィアはそう言った。 クロードの髪にくるくると指を絡めている。シルヴィアはそうするのが好きなのだ。 「リーンは危険だから、預けてきているんです。早く迎えに行ってあげないと」 クロードは優しくシルヴィアの髪に手を添わせた。シルヴィアはくすぐったそうに肩をすくめて微笑む。 「ずっと一緒に、いてくださいね……」 シルヴィアは幸せそうに微笑んで、涙を流した。 その涙は止まることなく零れ続けていた。クロードはそれを拭おうとしたがその手は寸前で止まった。 その代わりに、額に落とされた口付け。 「すいません。シルヴィア」 シルヴィアは涙を流しながら、何も言わなかった。
シルヴィアは歩いていた。 全身を疲労にさいなまれていたがその歩みを止めたいとは思わない。 あの人に会いたいのだ。その思いだけが彼女を動かし、動くからこそ彼女の美しさは損なわれない。 コープルは教会に預けて、シルヴィアは歩き続けた。 優しそうな神父がいたから大丈夫だろう。生まれたばかりの赤子を連れて行くには厳しい道のりだったから。幸いヤギの乳は丁度良さそうなものだった。 寄る街では昔のように踊った。踊るシルヴィアを帝国兵はシグルドの軍にいたものだとは気がつかなかった。 シルヴィアはそれまでも踊ってきたし、軍の中でも踊るのが役割だったのに。それなのに踊るシルヴィアはそれとは思われないらしい。どこか滑稽だ。
まだ、たまに明日を視ることがある。 自分にあるその力が些細なもので、そしてその力さえ急速に失っている今それは本当に時たまではあったが見た以上はきっと正しい。 夢の中である人を見た。 青年の司祭が一心に祈っている姿だ。始めてみる姿だが感覚で知れた。ブラギに祈っている。 そして、ブラギはそれに応えた。 いや、答えた。明確に形で。 金に輝くその姿はどこか祈る青年司祭に……それ以上に、似ていた。 あれはあの人だ。 シルヴィアには、確信がある。 そしてそれがクロードがシルヴィアと共にあることを選ばなかった理由であり、根拠であり、代償であった。
シルヴィアは、感覚でわかっている。 この体に流れる、天命の血。 あの塔に祈るとき、この血は消えるだろう。消え去ろうとしている最後の力は神の子に伝えられる。 そうしたら、今度こそクロードと共にいられる。 たとえ、人でなしと化したとしても……。 だから、その現状に目を疑った。
「クロード様」 震える声でシルヴィアは呼んだ。どうして答えてくれないのか。 応えなど要らない。言葉でいいのだ。薄っぺらな確証の言葉でかまわないのだ。 「何故ですか、クロード様!」 断絶されたブラギの聖塔を仰いで、シルヴィアは全身から叫んだ。 喉がつぶれる。風のようだと称されたその踊りと同じように軽やかな声はおそらく二度と発せない。 だが、それでも構うものか! 「それほど自分が許せませんか!汚らわしいですか!あたしがいてはいけませんか!」 そうではない。わかっている。祈りとともにその穢れは払拭されるだろうに彼はそれを選ばない。 そんなのは人間の選択じゃない。神の領域だ。 本当に望んでいるなら、人の身でそんなことは選べない。 シルヴィアとクロードとを隔絶するものを、「何故か」彼は存在することを選んだ! (シルヴィア) 「聞こえない声なんていらない!」
あの人が神を請う血族でなければよかった。 自分が神へ舞う踊り子でなければよかった。
もっと人間めいて、見えないことなど知れないくらいに。
(愛していなかったから?) だからこんなにも残酷な選択ができたのか? シルヴィアはつぶれた声で啼いた。
クロードが自分を愛していたことを、痛いぐらいわかっていたから。
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