トラキアに平和を
それは、父上が幾度も話してくれた夢であり
父様が抱いていた夢であった


聖戦に終わりを告げ
玉座に弟が足を進ませる




さぁ、トラキアの平和を守っていくのだ





宿敵





「陛下はどちらに?」

 聞き覚えのある臣下の声を聞いてアルテナはそちらに足を向けた。
 ダインより竜を駆り、マンスターに着いたばかりである。だが肝心のリーフとは、だがすれ違いをしてしまったらしく、会う人会う人今どちらの方に、と答えてくるのだから大変だ。
 戦争の後、信頼のおける臣下をと少しずつ増やしているが以前人が少ない城内では聞ける者もいなく、丁度良いとばかりにアルテナはそちらに向かいかけた。
「アルテナ様がいらっしゃったそうで、急ぎ出てゆかれましたが……」
「陛下も相変わらずに」
 臣下の声は老練で、温かみに満ちていた。幼子を見守るような声音が潜んでいた。


 彼は老年のために政治より身を引いていた旧臣である。レンスターが併合されてより帝国の将の目を潜みドリアスのために武器を輸送していたという過去がある。
 政治を見れるものが少ないということで、新トラキア王国において一時的に政務に戻り後進を育てているのであった。
 その声音にはいかにも年若い君主が愛しいのだというのがありありとわかる。
 ありとあらゆる事を伝えよう教えようとすれば、真綿のように吸収して更に洗練されていく。リーフと話すことは危険な遊戯だとアルテナは知っている。弟に教える事は教師としては新米なアルテナにさえやめられない。
 だからこそ、リーフにはその無邪気な面を忘れずにいて欲しいと思うのだから矛盾している。自分に会いに執務室を飛び出した姿を夢想してアルテナは自然微笑が浮かんだ。


「では、アルテナ様の元にいらっしゃるだろう……アルテナ様はどちらに?」
「それが、陛下にお会いになると……」
 苦笑する声が一層深くなった。ばつが悪い思いを感じ、言いおかれた場所へと戻ろうかと思う。確かにそこに待っていればリーフがやってくるだろう。
「しかし、アルテナ様には礼節を守っていただかないといかんな」
 戻りかけた足を止め、アルテナはその場に立ち尽くした。その言葉は明らかに棘を含んでいた。
 微かに首を振って、静かに足を進めていく。




「ダイン城でもあのようになさっているのか」

 アルテナはここ数年それを自覚していた。新トラキアをリーフの下に築き上げた時には新しく国を建てるという重役と忙しなさに聞くことが無かった。
 私は無知であった、とアルテナは感じる。リーフにトラキアの大地を伝えることは出来たが彼女は国民の切望も政治も帝王学も知らない。如何に父がアルテナを大切にくるむように育ててきたのかと知れた。
 逃亡生活を続けてきたと聞いたリーフはアルテナよりも余程物を知っていた。北トラキアの大地はどうすれば生きるのかということを知っていた。南トラキアの有用性さえリーフの方が巧みに語る。
 それでも潔癖さを失わぬ弟の何割かも、己も潔癖であっただろうか。それはすなわち、汚れることで事を負えない意味である。


「竜でいらっしゃるのもどうかと思う。ミーズで乗り換えるなりなされば良いものを」

 アルテナはトラキアを愛していた。竜から見下ろすトラキアは美しい。それは北も南も同じだと思う。
 ここに生きる者たちを慈しみトラキアの民を平和にしたい。それは父が語った夢であり、父様が願ったという夢であり、リーフが実現しようとすることである。
 アルテナはそのために己を尽くすことを躊躇うことはないし、リーフが真実王であるということを疑いもしていない。聖戦士の血を物ともしない王としての存在は父を知っていたからこそ鮮明に描かれる。
 父もまた民の平和を望んだのだとアルテナは信じている。だからこそ竜からの景色を胸に残す。この景色だけがアルテナがリーフに教えられるものだ。


「陛下にノヴァの血が現れればよかったのだが」



 アルテナは憤怒に顔を染めた。今の言い草はなんだ。
 そうだ。アルテナは知っている。分かっている。理解している。
 己にノヴァの聖痕が現れたことで、どれだけリーフが苦難を歩んできたかを。
 幾度、このような言葉に晒されてきたかということを。


 だが、リーフはそれを超えていくのだ!今の言い草は何だ!

 勿論アルテナは知っている。その言葉が長らくリーフを貶めてきた言葉なのであると。
 だが今やその言葉はアルテナに向かうものであった。リーフを讃えるが故に。
 アルテナは噛み千切らんばかりに唇をかみ締めて足を進めた。揉め事を起こすわけにはいかなかった。彼女の役割はただ一つ、リーフの治世に全力を捧げることである。
 リーフの歩む道を補佐し、支え、送り届けることである。
 アルテナはここ数年で、ようやっと気がついていた。




 アルテナはリーフの敵である。















 聖戦終了より六年、新トラキア王国は急速に国力を伸ばしつつあった。
 元来豊かな北の大地に放置されていた多くの南の鉱山。帝国に占領されていた時代に一層発達した加工技術に装飾技術。雅やかな文化を持ちながらも潔癖とした騎士の気性をもつフリージに占領されていたことは、戦後となった今では好都合だったかもしれない。
 そう言ったリーフの言葉にアウグストは愉快そうに笑いながら「他の人に言ってはいけませんよ」と言った。
 洗練された技術は腐敗することなく北トラキアの貴族腐敗だけ攫って終着したのである。
 レンスターに置いていた王都をマンスターに移し、トラキアと呼ばれていた城をダインの名に改定した。かくして新トラキア王国はマンスターという王都を持つ、トラキアという国となったのだった。
 ラケシスと共に帰国したフィンはその決定を聞いた時に目を丸くしたものだった。
 マンスターはかつて北トラキア連合であった時のレンスターに次ぐ強国であり、最も古い歴史を持つ国であった。トラキア半島の中央に拘るのであらばミーズであろうがあえてマンスターを選んだのには諸所の理由があった。
 かつての分裂を象徴するかのように南北に離れたレンスターを王都に据えなかったのは、アウグストからすれば実にもっともな事であるらしい。


 南は山脈が大勢を喫するとはいえ領地だけならばグランベルに勝る広大な半島を納めるトラキア。
 トラキアの王はマスターの称号を持つ賢王リーフ。その玉座の背にはトラキアの象徴とされるゲイボルクとグングニルの槍が飾られていた。この二槍の封印はリーフの持つ印章によってのみ解くことができる。
 急の事変が勃発したときには王が封印を解き二槍の継承者に預け第一線に赴かせる。これは新国家樹立にあたってのアルテナとアリオーンによる忠誠の証であった。


 ゲイボルクを献じた時の得体の知れない不安をアルテナは覚えている。
 傍にあるのが普通であると感ずる温かさ、血があれは私のものだと主張した。
 そして、だからこそアルテナはそれを手放す意義を知っていた。
 それは明らかに不自然。
 リーフはそれを超えようとしている。アルテナは弟のためにできること全てをしたかった。






 部屋に戻りリーフを待とう。そう思って進んでいく城内の向こうに見知った影を見つけてアルテナは足を止めた。
「アウグスト」
 トラキアを見越す宰相はその声にアルテナの姿を認め礼をとった。白い法服が翻される。
「これはアルテナ様。陛下をお探しで?」
「ええ。ですがすれ違いのようで……大人しく待っていようかと思います」
「それがよろしいかと」
 呼び止めたものの次の言葉が続かない。アルテナは自嘲しながらその場を立ち去ろうとした。
「時にアルテナ様、私に何の御用でしょうか」
「……貴方は人の心を見抜く瞳でももっているかのようね」
「光栄と受け取ることとしましょう」


 アルテナは一つ溜息をついた。それからしゃんとアウグストを見て聞いた。
「私は、リーフの重荷でしょうか?」
 アウグストはやや驚いた様子であったがふむと顎を撫でて常の調子のままで言った。
「どこぞの口さがない者になにか言われましたかな」
「いいえ……」
「それは結構。結論から言わせていただくとその通りでございます」
 事も無く言い切ったアウグストの言葉は明瞭だった。よもすればあらかじめ予想していた質問であったのかもしれない。
 アウグストは導くようにその場を離れた。誰が聞いているとも知れぬ回廊から見晴らしの良い中庭の東屋へ。リーフが待っている、と思いながらもこの時を逃したくはない。


「そもそも、レンスターが何故陛下に故国復興の願いをかけたのかお解りですか?」
「リーフが王子だったからでしょう」
 然り。だが、とアウグストは続ける。
「この大陸は神々の血によって支配されています。
 聖戦士の血族は、正真正銘神の血を引くもの。故に民は讃えるのです。まるで神を見るかのように」
 言いながら否定するかのような口ぶりであった。民の中に、彼は己を加えていない。
 それを傲慢だと言い切ることはアルテナにはできなかった。彼女もまたアウグストの見地を承知である。
「フリージのイシュタルを思えばご存知のように、聖痕……つまり直系の証は長子に与えられるとは限りません。ですが誰もがイシュタルが次代のフリージを背負うものだと理解しておりましたね」
 では、と。アウグストはアルテナの右手を見つめて言った。
「何故聖痕のない陛下は民に選ばれたのでしょうか」
 アルテナは短く沈黙した。
「アルテナ様、貴女様が命を失ったと思われていたからです」


「貴女の存在は不確定要素……あってもなくとも、なんら影響はもたらさないあまりか。
 聖痕を持つ貴女は、存在するだけで陛下の治世を脅かす毒……そう考える輩も、いるというわけですな」


 それでは何故私はこうして生きているのか、それはもはや問わずとも良いことであった。

 アルテナは敗戦国の血統でも(情けをかけられ温情を示す対象でも)なく。
 長く弟を助けてきたわけでも(実績ゆえの敬愛を向けられるわけでも)なく。
 それでも彼女がトラキアの民として生きてゆけるのは。






「お解りですね」
 アウグストは淡々とした声で囁いた。死刑を宣告するかのような声音であった。


「陛下がアルテナ様を慕うから、貴女はこの国に必要なのです」




















「姉上!」
 明るい声が届いてアルテナはその顔をあげた。柔らかい大地の色の髪を跳ねさせながらリーフが駆け寄ってくるところであった。アウグストは無言で頭を下げその場を去っていく。
 20を過ぎ飛びついてこないだけの分別はついたのであろう。だが駆け寄ってくる足音には微笑を洩らさずには居られない。
「姉上、よくお出でくださいました」
「リーフ、変わりはないかしら?」




 アルテナは、このときにいくつかのことを黙殺した。
 己はリーフの敵であった。
 臣下たちは己を厭っていた。
 己がいきていたとして、何の価値がなかった。


 それを全て黙殺した。

 アルテナが王女である以上にアルテナであったからなのか、己を慕うものの存在を知っているからなのか。
 おそらくそこまでアルテナは個人にはなりきれない。


 レンスターの王女であり。
 トラキアの王女であり。
 新しきトラキアの国民である。




 リーフが笑いかける限り。
 アルテナはトラキアに生きられる。




(そう思ってしまえば二度と優しい弟に笑いかけられなそうなので)





 それも全て、黙殺して微笑んだ。















(04/04/03)