しとしと しとしと
雨が降る
こんなにも違う、と思った 雨が違う 植物が違う 食べ物が違う
きっと、人々の意識さえ違う
しとしと しとしと
雨が降る
ほら、虹だよと あどけない声の先を見た
廂下
活気がある、と言って差支えが無かった。 疎開地から戻ってきた人々の歓声、隠れていた子供たちの足音。 「……よし、行くぞ」 「うん」 目立ちすぎる髪に布を巻いて隠し、ヴェルトマー公と公妃は駆け出した。
「城下が見たい」 言い出したのはアーサーだった。机に縛り付けられたデスクワークに明らかに飽きていた。元来シレジアの片田舎で育った身なのでのんびり風を感じて過ごす時間がないと耐えられない気性である。 きらきらとした銀の髪もどことなくくすみ、紅の瞳には元気が無い。 「何言ってるのよ」 応えるフィーとしてもトーヴェの育ちである。統治に関わりはなかったし、南シレジアとの交流が途切れた状態では細々と生活を送るのが精一杯だった身だ。 彼女は風の娘だった。たまにはマーニャを駆って散歩でもしたかったが、当の彼女は慣れない厩で世話役に呼んだものの手を煩わせている毎日だった。 ペガサスの世話は自分でするものだ、と言っても忙しさがそれを許さない。 城下視察は何度かした。護衛と輿に挟まれた大層窮屈なもので、人々は歓声を上げて集まってくるので仕事の情景など見られていない。むしろ復興作業が遅々と遅れるばかりになるので早々と諦めた。 儀礼も、形式も、実務も。重要なのはわかっている。二人は凡庸に生活を営んできたが幼い頃から己の出生を自覚し、また自覚した教え手が存在した。 だけれども。 二人は瞳を合わせて、同時にニヤリと笑いあった。
『城下の視察に行ってきます。生の民が見たいので騒がないで下さい』 語尾には、『やりぃ、お忍びだぜ』と書かれていた。 積まれた決済済み書類の横に置手紙。
「……魔道書と、公妃の銀の剣は?」 「ありません」 臣下一同、少し安心。 公夫妻は解放軍における随一の魔道師と騎士である。公領一強いのも、恐らく彼らだった。
「結構軽いもんだな」 「今まで品行法正に振舞ったもの。きっとこれ以降は警備が厳しいわよ」 「内への?」 「そうそう」 頭に巻いた布を直しながら、二人は弾けるように笑った。復興に忙しい中公金に手をつけるのは言語道断だ。 大層に貯蔵されていた装飾品は綺麗に売り払った。新しく始めるのだから昔の義理やら恩寵品などなくたっていい。幸い二人とも華がある。即位用の装飾をこっそり使いまわすので当分は足りる。全く容姿など使い倒して損は無い。 戦争中に貯めた闘技場で稼いだ金を出してきてあった。軽い食事を取るくらいには問題がないだろう。 「行きたいとこある?」 「うーん、色々」 半分は遊びじゃない。書類に浮かび上がらない不透明な場所が見たいのだ。必然的に治安の悪い方向に足が向く。 ヴェルトマーはアルヴィス皇帝の膝元だ。年中バーハラに身を置いていたとしても、そこには第一の家臣を置いていた。ユリウスが実権を握った後はヴェルトマーに居たので、マンフロイが身を置くその時までグランベルで最も安定していたと言っていい。 解放戦争の際に守護に当たったのはロプト僧ばかりだったから、彼らの術は城を乱さない。シアルフィに移る前に民を疎開させていたのも手伝った。
ヴェルトマーは、恵まれている。
それでもアルヴィスは疎まれていた。 なんでだろう、と足を進めながらアーサーは思った。
「それは、やっぱり統治後半のイメージじゃないの?」 焼き鳥を食べながらフィーが言う。好き嫌いの激しい公爵様はこれ幸いとばかりに新鮮な胡瓜を齧りながら歩いている。 「解放軍でさえ、ユリウスを傀儡に伯父上が糸を引いていると思っていたもんな。実際には逆であったわけだけど……」 「終わりよければ……って言葉があるけど、終末の印象が悪いほど善政の記憶は薄れるわ。その典型じゃないかしら」 「レヴィン様の情報工作は知らないフリしておく?」 「あんな人は放っておけばいいの」 つんと顔を逸らしたフィーにアーサーは表情をほころばせた。彼女の中ではやはり納得はいっていないらしい。たとえもう二度と会えない人なのだとしても……。 会えない人だ、とアーサーは繰り返す。子供のように狼狽して父上、と繰り返しながら城を立ち歩いていたセティの姿。 レヴィンにはもう会えない。理由は知らないがそれをセティ自身が最もわかっていた。
「何笑ったり黙ったりしてるの?」 「んー、フィーの怒った顔は可愛いな、と……」 「莫迦」 フィーはきっと泣く。 涙を昇華させられるほどに、子供で居られなくなった頃にセティは伝える勇気を持てるだろう。
「あれ?」 目の前にふと影が差した。思考にふけって前方不注意だったらしい。立ち止まったのはフィーが服の裾を掴んで止めさせたからだ。 「ここから先は通行止めだぜ」 目の前に立ちふさがった巨漢の男は、なんというか…… 「まさに、という感じだな」 「そうね」 公王夫妻の反応は気安かった。 友人達が見たら、どうしてそんなに緊張感がないんだと幾度と繰り返すだろう。実際明らかに力が劣っていたとしても、彼らは軽口を叩けるくらいの胆力がある。 だが如何せん相手はそんな諸事情には通じてはいない。 「はあ?いいから帰んな、いや待て……」
無骨な手を伸ばして、顎に手をかけて曰く。 「お綺麗な顔した嬢さんじゃねえか」 フィーは顔を逸らした。吹き込む。
ぷち。
「だーれーがーだああああ!!」 背丈があるものの、黙っていれば当世の美貌。そんな容姿を使いまわしつつも他人に指摘されるのは業腹らしい。魔法騎士と呼んで名高いヴェルトマー公は相手の股間を思い切りよく蹴り上げた。
「あは、あははは・・・・」 「フィー、笑い過ぎ」 「ごめんってば」 アーサーは落ち着いたようで、半眼で辺りを見回した。悶絶して気絶した男の先だ。 「何やってんだか」 男をおもむろに踏み越えて路地に入っていく。フィーはおなかをかかえながらも軽快に巨漢を飛び越えた。 「何かしてる、ってこと?」 「ああ。こういうやつは見張り役だから。何か見られたら不味いことをしてるんだろ」 道の先から聞こえてくる問答に、アーサーはしたり顔になる。
「――色々溜め込んでんだろう?世間様のお役に立てようとは思わないのかい?」 「……っ何度も言うように、そなた等のような者に出すようなものなどはない」 はたして暗がりでは見られたら不味いこと、が進行していた。 さっきあれだけ大声あげたのによく動ぜず続けるものだ。二人はそう思わないでもない。 「もしもーし」 「往生際が悪いヤツだな……いいから出すもん出せっつってんだよ。アンタがちょーっと流してくれさえすればいいんだ」 「馬鹿なっ。そんなことができるものか!」 「聞けよバカヤロウ」 公爵は短気だ。
背後で鳴ったけたたましい音に男達は視線を向けてくる。瓦礫を蹴り落としたアーサーが、腕を組んで見やっていた。 「何だお前等!?いつからそこに……ちっ、あいつは何をしてたんだ」 アーサーはその様子を見ながら、もう一人の男……おそらく金銭など要求されていたのだろう男のほうに意識を向けた。簡素な服を纏っているが布地はしっかりしたものだ。安くない。 一方アーサーとフィーは育ちもあってかしっかり庶生の服を用意していた。傍から見て権力者と思われることはまずないだろう。 なるほど、と思いながら口を開く。 「ヴェルトマー城下のみならず、領内では一切の略奪行為は禁止されている。それを承知での所業か?」 フィーが黙って横についた。彼女の手は外套の中でひっそりと剣に寄せられているだろう。 解放軍に参軍していた時は、もっとぶっきらぼうに対処していただろう。乱暴に言葉を言い放ったかもしれない。 けれどもアーサーは、いまや公領の主だった。 堅い口調を崩しもせず、公に則った様子で問い句を続ける。役職を明かすわけにはいかないが。 「役人か……!?」 男の瞳の中に怯えが走った。それと同時に凶悪な色が宿る。 それは、そうだろう。 この男から……彼から金を奪おうと思えば、それは当然のことだ。 「お前の名と職を明かせ。詮議にかけて余罪なくば釈放も早いだろう」 男の瞳の中の凶悪さが色を増した。 アーサーとフィーは一見華奢な二人に見える。組み伏すのは容易と見たのだろう。
「何を生意気なことを……っ!?」 男が飛び掛る前にフィーが動いた。力のなさを鞘ごと抜いた剣で補う。長さがあればこそ力は集め易い。 伸びた腕を絡み上げ足ごとさばいた。
呆然とひっくり返る男をアーサーはいっそ優しい微笑で見下ろす。
「手加減が、下手なんだ」
辺り中をパチリ、と静電気が飛び交っていた。
弱い雷で痺れさせた男を踏みつけながらアーサーがフィーを振り仰ぐ。 「近日の公金略奪の手がかりだ。マーニャを呼んでくれないか?」 様子を伺っていた男が瞳を見開いた。フィーは気に留めず任せて、と言う。 この場を去るか去るまいか。悩んだ様子の男にアーサーは言葉を投げかけた。 「さて、次は貴殿だ……子爵?」
「……やはり承知であらしましたか、公爵」
ああ、こちらもバレていたか。アーサーは笑って頭に巻かれていた布を落とした。途端広がる銀紫の髪。 「その瞳を見て、わからぬものなどおりましょうか」
それは難点だな、と公爵は笑う。
「先帝の……有事に備えた蓄えです」 手際よく賊を捕らえさせ、三人はヴェルトマー城下を歩いていた。子爵はとうにかしこまった様子になってしまっていたが一々気にしていてはキリが無い。 「だが、後期マンフロイ大司教が統治するようになってからヴェルトマーの街も乱れたと聞く。何故その時に使わなかったんだ?」 「時でない。そう思いましたので」 子爵はアルヴィスの頃より仕えている者だった。まだ若く、アゼルの姿は覚えていないと言う。 だが直々に有事金の管理を任された男は理想家で、主君の命にさえ時に抗うほどの情熱を持っている。
「伯父上はなんと?」 「お前の考えるようにしろとおっしゃってくださいました」 なるほどあの人らしい。そうアーサーは呟いた。公爵は先帝とはさして面識がないはずだが、と子爵は訝しげな色を混ぜる。 アーサーはその視線に対し、皮肉げに頬をゆがめた。 「伯父上は、ご自分に自信があるから常は最終決定を自分だけのものにする。自分の判断を信じられなくなった時、信任する者に判断を委託してしまう。……そういう人だ」 アーサーの嗤いに子爵は恐る恐る質問を続けた。 「先帝を、憎んでいらっしゃいますか」 予想していた問いらしかった。 「あの人は、憎悪に値しない」
寂しい人だ、と続けたアーサーは紅い瞳を揺らがせた。黙っていたフィーがそっと寄り添う。
「公爵は……自分を信じられなくなったらいかがするのですか」 紅い瞳に目線を合わされ、子爵は狼狽した。炎のような色だ。 「俺は俺を信じていない。だから、こうして城下の皆が笑っているかどうか……それだけで動いている」
ちゃんと政治を覚えないとなあ、と嘯く姿は、炎よりも風のようだった。
「あ、ヤベ。降ってきた」 走り出すアーサーとフィーに子爵は続いた。 どうすればいいだろうか、と思う。 私は私を信じていいのだろうか。
雨宿りをする子供の姿。あどけない笑顔を垣間見て、子爵は余所見をやめた。
「何やってんだ、濡れるぞ」 「通り雨です。直ぐ止みますよ」
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