追ってくる音がする
捕まってはいけない
見つかってはならないとひたすら駆けた


いくら走っても耳に響く足音は消えなくて
その音が誰かのものでなく
自分の足音が反響したものだと気がついた時
冷たい寝床で、少年は目覚めた




今日もまた朝がきた
昨日は仕事にありつけなかった
今夜はカモが見つかるだろうか


冷たい教会と神の像の下うずくまる子供
アーサーは彼らの足元に固くなり始めたパンを置いて外に出た


(もう祈ることはしない)





乾いた雪





「神父様?」
 アーサーは初老の聖職者を探していた。先ほどからどこへ行っても見つからない。
 南シレジア全土に出されているお触れにしたがって、彼らは北へと移らなくてはいけないというのに。
(あの人は優しい人だから)
 ひょっとしたら、移る前に、と王家へと挨拶に向かったのかも知れない。神父はかつて王宮付きの司祭であったと噂を聞いたことがある。本当かどうかは、アーサーにはどうでも良いことだ。
「アーサー、神父様はまだ見つからないのか?」
 同い年ぐらいの子供が駆け寄ってくる。アーサーは鷹揚に頷いた。
 視界に一瞬入った髪、草の汁で染めているその色が落ちて銀色が覗いている。アーサーは顔をしかめた。
「ちょっと外もみてくるよ。お前等は準備しててくれ」
 ついでに髪を染め直しておこう。紅い瞳はどうしようもないが、この目立つ銀色だけはフォローしなくてならない。











 アーサーは質素な神の像に短く黙祷を捧げてから教会を出た。今日の風は、やけに強い。
 ごうごうという風。シレジアにはよくある音、だが、とても珍しい音。髪を染めやすい草が生えている場所まで駆けて行きながらアーサーは空を見上げた。
 若干違いを見せている風にアーサーは疑問を覚えた。いつも持ち歩いている魔道書のうち一冊を取り出す。風の加護をうけた書だ。
「なぁジルフェ」
 風の魔道書に声を透かすように言葉を紡ぐ。あのひとがするように風と話すことは、存外非常に難しいことだ。
 知りたいのは神父の居場所だったが、今日の風は胸を騒がせる。
「こんなに騒いで……どうしたんだ?」


 ちりちりするよ。
「なにが、そんなに……」
 胸がいたいよ。
 全身を包むのは嫌な予感だった。自分には予視の気は全くない。だから、これは未来の不安ではないだろう。


 未来のでないのなら、いつのだろう。

 一瞬で身体に浸るような悪寒を感じて、アーサーは視線を飛ばした。黒い。
 ギャアギャアと精霊の叫ぶ音がする。
 わだかまる暗闇が、遠い地平線に覗いているのが見えた。
「シレジア……」
 我知らずと呟かれた言葉。そうだ、向こうはシレジアの城があるはずだ。
 風の王の住まう城。何故にあのように暗いのだろう。
 アーサーは髪を染め直す時も惜しんで急いたように駆け出した。


 いたい、いたい。

 急激に身体を揺すりつけるちりちりとした痛みは駆け出すごとに増していく。だがその足を止める気は起きなかった。ちりつく痛みは更にアーサーをその元へと誘い、奥へ奥へと誘っている。

 唐突に、風の動きが変化した。

 アーサーは足を取られて大きく転んだ。思い切り腹を打ち付けたのでこほりと咽る。
 自分を守っていた風の守りが、その動きを変化させてアーサーの足を捕ったのだ。
 だがアーサーにはそれも解らず、わけのわからぬまま起き上がろうと苦心した。
 だがざわりと包む黒い気配に、ぐるぐると体内の気が気持ち悪く澱む。
「・・・ぅ……っぇ」
 堪らずにアーサーは胃の中のものを吐き出した。朝食を食べていたから良かったが、そうでなければ胃液ごと吐いていたかもしれない。
 くさむらに吐き出された嘔吐物からふらりと視線を外し、アーサーは頭を押さえ込んだ。ぶんぶんと振る。
 酷くもどかしくて頭にやっていない手を握り締め、何度も地面に打ち付けた。
 ごろごろと地面を転がったのは、肌がざわりと掻き毟りたい衝動にかられたからで。
 結果的により城から遠ざかろうとしていたことにアーサーは気が付いてはいなかった。


「……ひ……っ……!」
 ひゅーひゅーと喉から空気が洩れて、アーサーは目眩を感じながら城を見上げた。いつも美しい城だ。
 だがアーサーはその城に底知れぬ恐怖……いや、嫌悪を感じずにはいられなかった。
 幼さは、それに小難しい名称を与えることは出来なかったけれど。
「……」
 突然の音に、アーサーはびくりと身体を震わせる。
「城が」
 アーサーは掠れた声で呟いた。耳元で風が哀しそうに哭く。
「城が……落ちた」
 遠く視線の先にいた、神父の遺体は見なかったことにしてアーサーは身を翻した。



 シレジアの動乱の始まりだ。










「アーサー、ごめんな」
 子供の一人は、毎日決まったようにそう口にした。アーサーはその理由がわからなかった。
 むしろ止めて欲しかった。まるで自分が不幸みたいじゃないか。
 アーサーはこんなことはなんともないのだ。
 死ぬより酷いことがあるだろうか?始めの日、既にそうわりきっていた。


 死ななければ、なんとかなる。

 そのためには、別になんともないのだ。



 村を歩くと、ひらりと伸び始めた髪が揺れた。銀の髪。目立つために、染めることは止めてしまったのだ。
 見覚えのある豊満な女が呼び止めてくる。
 また旦那をほおって来たのか、と言うと艶を浮かべて笑った。
 楽しむかのように立てた指に手を伸ばして、もう数本立てさせた。
 女はくすりと笑って頷いた。
 ところで、その晩その女は死んでしまったらしい。
 ペンダントに触るなって言ったのに。とアーサーは一人ごちた。


 ……名前も覚えていなかった。



「帰ったぞー」
 アーサーは未だ声変わりの無い声で呼びかけた。教会の中は、静かだった。人っ子一人、いない。
 蒼白になって、質素とはいえ唯一の貴重品である神の像にかけよった。壊されていて、持ち去られてはいない。
 結びつくものは一つしかなかった。
 一刻も早く身を隠すためにアーサーは足早に荷物を整えに走った。幸い、荷物に手をかけられてはいなかった。隠しておいたのが効をそうしたのである。


 耳元に足音が響く。
 これは自分の足音か、いや違う……。


 アーサーは教会から飛び出した。隠れるなら森に限る。幸い今は夏だった。

 複数の足音がする。
 これは黒服の足音か、いや違う……。


 聞いてはいけない。



 アーサーは無視をした。もともと音など聞こえていないのだ。
 聞こえていたら、駄目なのだ。
 きっと、耐え切れなくなってしまう。






 子供狩りが、ここまで来た。





 ……自分が踏みつけてきた足音。聞いてしまったら捕まってしまう。















 (03/06/14)