闇の業は修羅の業 極めるは難く その一端すらも垣間見えぬ
古の魔道を継ぐは天の采配 その資格あれども
……覚悟無くば、向かう先は深淵の闇
やみのかいな
一人の少年が、立ち尽くしていた。 眼前には虚空を見つめる男の姿があり、それを無感動に眺めている。 男と共にいたのは数年の長きを経ていたが、このような別れを想像していなかった、といえば嘘となる。 それは目の前の男がまず始めに説いたことで、幼い自分に求めた覚悟であった。
――この人は、堕ちたのだ。
レイは始めて見るその姿を直感的に理解し、そうして視線を外した。 旅支度を、しなくてはならなかった。
孤児院を出てきたときに何の目算もなかったわけではない。 自分が一人いなくなることは子供達の面倒を見るものが一人いなくなるということでもあるが、それより一人分の食べ物が表れ出るということであった。 それは、ろくな働きができるわけでもない、若干8歳のレイがいるよりも現実に有効。 当たり前のように皆で生きていく、と思っている双子の兄よりも、レイはずっと乾いた思想を持っていた。 置手紙を残して出てきたとき、窓際に立ちすくんだ逡巡の金髪。 この孤児院を背負った彼が自分を止められないだろう、ということもレイは知っていたのだ。 おそらく何も言わないでくれるだろうその姿は、小さなレイの背中を後押ししていた。 闇魔道を極めたいというのは、決して小さい目的ではないけれど。
ただ当ても無く彷徨って闇を知れるわけもなく、レイはほどなく一つの館の前にいた。 理魔道と違い、闇魔道を率先と組み入れる貴族は存在しない。 そのためシャーマンたちは人の踏み入れない場所で研究を続ける。それはレイにとって好都合なことだった。少なくとも、接触しやすいという一点において。
扉を叩いても誰も出てこない。レイは気にすることなく今度は扉を押し開けた。あっけなく開く。 ぴり、と感覚が疼いた。 レイが闇を選んだ理由は、一重に適正に他ならない。母が残していった魔道書、危険だと院長がしまいこんだそれに、レイは共感を抱かなかった。 ただ、その中に記された文字には深い興味を持った。 拙くそれを読み上げ、整頓された美しい構成の中に潜んだ純粋な力。
それがレイの、闇の力だ。
かつて味わった感覚に、レイは館の中を睨みつけた。空気が違う。 息を吐いて、思い切り吸い込む。
闇の魔道は、外にあるものではない。ただ純粋に、己の中に眠るものだった。 昏い空気を吸い込んでいく。自分の中の闇に取り込む。 世界に散らばる闇の力は決して相容れぬものではなく、一つ一つの個は知であり、先人の欠片。ねじ伏せるのではなく取り込むもの。手に入れるもの。 世界の根源、それが闇。知れば知るほど、力は増す。
レイはどくん、と体内が騒ぐ音を聴いた。 力が欲しかった。 だから、それにためらいなど覚えない。躊躇など知らない。 もっと深く、深く……
「やめろ!」
レイははっとして眼前を見つめた。目を閉じていたわけではなかったが、見えてはいなかった。 いつのまにか目の前にたっていた黒衣の男に、鋭く視線を飛ばす。 男はその瞳に動じることは無く、感嘆と驚愕、そしてほんのばかりの嫉妬の瞳をもってしてレイを眺めた。 「このような子供が……何の用かと思えば、単なる物見遊山でもなさそうだ」 幼いレイは、見下ろされながらもそれを認めようとはしなかった。瞳をそのままに、口を開く。 「闇を教えてくれ。……あんたの全てだ」
男は口を歪めた。そして、いいだろうと呟いた。 「だが、私が許すまでもう闇に触れようとするな。お前は堕ちかけていたぞ」 闇に堕ちる、という言葉を聞いたのは、それが初めてだった。 (それでもこの道に後悔をしたことはない)
男は、教師としては不十分であった。少なくともレイにはそう思えた。 男は古代の文字の読み書きを教えはしたが、肝心の闇の扱いについては教えようとはしなかったからだ。 だが、レイは不満なわけではなかった。 教えを貰わずとも男の館には民家と比べ様もない程本があったし、男は優秀なシャーマンであった。更なる深みを目指すその姿は、見ているだけで闇の一端を感じさせた。 男にとって、レイは生徒としては充分であった。 レイはこの時代に似つかわしくなく幼いくせに普通の読み書きは充分にできていたし、古代文字も吸い込むように覚える。 口を開けば生意気をいい、なんとも扱い辛い子供だが、闇についてはこと真剣に話を聞いた。 男の挙動一つ一つに秘められた行動の意味を、利発に読み解く。 一を聞いて十を知るというのを現すかのようで、幼い少年はいわゆる天才だった。
だからかもしれない。 男は、レイに闇魔道を教える気は一年たっても起きなかった。 それでなくとも勝手に学ぶのだ。そう言い聞かせるようになっていたことに、いつしか気づいていた。 多分これは、嫉妬という。
「レイ、何度も繰り返すようだが、闇魔道は危険なものだ」 男がレイに闇について話す時、ほとんどはその話だった。 「私は今までに、何人もの堕ちたシャーマンをこの目で見てきた。いずれも先を嘱望されてきたものたちだ」 子供はしかめっつらで聞き飽きたと言い返す。だが男は何度もそれを口にした。 「忘れるな」
「闇魔道は己の心との戦い。……踏み外した先に、光は二度と訪れない」
だがそれから一年して、男は何も言わなくなった。 虚空を見上げる男の姿に、レイはかける言葉も問いも思いつかなかった。
レイは荒野を進んでいた。最近起こった領土の問題の小競り合いが、大地を荒野に変えていたのだ。 リキアはオスティアを盟主とした諸侯の連合で、その連合は隣接する大国エトルリアとベルンに対する備えでもあり、諸侯間での牽制もある。 当然、大規模なものになるはずもない小競り合いは、だがこの地に住まうものにはいい迷惑だっただろう。 どちらに属することになろうが、さして変わりはしないだろう。
レイは、自分がどちらの軍勢に雇われたのかも定かとしていない。ただ、自分達のいた勢が勝ったのは知っている。 小さな子供に支払われた報奨金は、短期の雇いとしては莫大なものだった。 それを出されたとき、非常に嫌な気分がしたのは覚えている。レイは闇魔道を研究していくのに、あと食べていくくらいの金があればよかった。 しかし、それを子供のようにつっぱねても、結局金持ちのところにしか戻らないのを知っていた。 荒れた大地を建て直そうとしている場所で、盛大に金を浪費して必要なだけ残したらまた旅を続ける。
ある時、はぁ、と息を吐いた。 ふところに入れられた、リザイアの魔道書。 その感触を外衣の上から確かめて、また息を吐いた。疲れているわけじゃない。 息を吐いて、吐いて、吐いて……吸った。
空気は、外気だ。 それにまつわるは、かつて読んだ本にある精霊。 レイは、そんなもの見えない。見ようとしていない。 それでも、レイは深く深く息を吸った。
師と呼び忘れた男が堕ちた時に。 虚空を見上げる瞳を覗いた時に。 戦争をした時に。 かつて男に止められた術を振るった時に。 人を殺した時に。
いつか自分も堕ちるだろうか、と思った。 それでも、リザイアの書の感触を手放さない。 言い訳なんてしない。 後悔はしたことがない。
この決意を、捨てようと思ったことが無い。
「……ルゥの奴、ちゃんとやってるかな……」 言葉を吐く度にまた息をした。 冷めた目を荒野にむけてまた歩き始める。
誰もいない荒野。 空を見上げれば、無言の太陽。 更地に向けられた光は大地を包み、影はレイのものだけだった。 闇を抱えるのも、レイだけだった。 もう自分の中の力がそこにあることを知っている。 息を吐くたび、世界を変えそうなほど。
……いつか、自分も堕ちるかもしれない、と思った。
この空気を吸うこと。 懐かしい人を思い出すこと。 光を眩しいと思わないこと。 忘れないこと。 ……自分を疑わないこと。
それを全部、忘れた時には。
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