「マンフロイ様が亡くなられるなど」
闇の中、狼狽する声と、声と、声
「ロプトの血が」
「まだサラ様が」
サラ、サラ、と告げられる
「だが、サラ様は隠されている場所が知れぬ」
「トラキア王め……」
「ベルド司教もあやつめに」
密やかに続けられる言葉はそこで、途切れた
項垂れた顔、顔……瞳


「まだ、ある」

「――が、ノディオンに」
「あれさえあれば」
「まずは、三つの光を」
「仕掛けていたな?」
「そうだ」
「そうだ」




「だから、先ずはヘズルよ」





やいば






「デルムッド!」
 まだ若く、朗らかな声がその名を呼んだ。先頭を進む黒い馬上の主だ。駆け出そうとするのを、共に相乗りした娘が窘めているのが知れる。彼女にはとんと弱いらしい若き王は、それで渋々と緩やかに馬を進めてきた。
 陽光に輝く髪は金色で、身を包む黒い鎧にはよく映えていた。
 背には象徴のごとく魔剣ミストルティン。これは、王の威光を示すためだと彼は言っているが、実際は長い傭兵暮らしで、武器を手放すのが怖ろしいだけだろう。これは長く隠遁生活を続けた自分にも解るので責められない。
 デルムッドは苦笑してアレスを迎えた。時はアグストリア統一王国の設立より九年を数えたばかりである。






 アグストリアがアレスの元に統一された。勿論容易い事業ではない。グランベルの派遣した領主と、生来のアグストリアの諸貴族とが奢に耽り、治世を疎かにした十七年間は重かった。
 本来自らが統治する地がこのように荒れることは望ましくないはずだが、グランベルの派遣領主は、元々自分の土地ではない。イザークや北トラキアで暴政が行われたのも同じ理由だ。
 アグストリアの諸貴族も、長年の贅沢に慣れすぎていたし、最終決定権をグランベルに奪われている状態で、治世への意欲がまるで失せていた。
 税金が嵩み、盗賊が跋扈し、海賊に蹂躙を許したのはそのためである。
 かくして、苦しむのは民ばかり。昔を知る者はアレスの面影に夢を見、若い者は聖戦の伝え聞く覇業に希望を抱いた。ノディオンの遺臣が密かに育て続けてきたクロスナイツも加わり、ようやっと統一を成し遂げたのである。
 そのため、アレスの国民への人気はとみに高い。ここは膝元のノディオンであるから尚更だ。
 ノディオン公としてアレスを出迎えるデルムッドは、それを誇らしくも思うし、苦々しくも思う。
 なんといっても、アレスは未だ執務から逃亡するのだ……。ノディオン公であるデルムッドが度々アグスティに出向かねばならない理由はそれであった。全く、よくぞ十年弱も(統一戦争もあわせればもっとだが)民が騙されてくれるものだ。もうじき、騙して十年となれば嘘も真になって欲しいものだが。


 今も、ノディオンの民達は悠然と進んでくるアレスに向かって夢中になって手を振っていた。くすくすと傍らで小さな笑い声がして、デルムッドの心中を語る。
「アレスは相変わらずね」
 聞き触りの良い声がデルムッドの耳元を擽った。高く結い上げた黒髪はまとまりきらず白い肌に零れ落ちている。デルムッドと合わせた白い正装は、踊り子としての本分を忘れることがないままでさえ、あつらえたように似合った。
 レイリアはノディオン公妃である。
 彼女は出自こそ不確かであり、その身は踊り子であったが、アグストリア統一戦争の初期から一行に加わり、その戦渦、また現在の国政においても強い影響力を持つデルムッドの強い意向で正妃の座にあった。
 ノディオン公妃の座を狙う諸貴族からの反対がないわけではなかったが、なにより国王とその妃とが認めているし、王よりも国のために働いているデルムッドに意見を突き通されれば抗える者はなかった。
「リーン!」
 アレスに手を取られながら馬を降りるリーンと再会を喜ぶレイリア。
「王子様は?」
「疲れちゃったからパスだって。レイリア様によろしくって言ってたわよ」
「残念」
 治世九年の祝祭。ノディオンで行われるのは、その後夜祭であった。






「それじゃあ、レイリアが踊るの?」
「そうよ。アレスが聞いたら年甲斐もなくーとか言うだろうけど」
「レイリアはずっと綺麗よ。昔よりも」


 一緒に寝よう、と甘えた発言をしたリーンに、レイリアやデルムッドは快く頷いた(アレスは不満そうな顔になった)三人寝たとしてもゆったりできるだろう寝台に、二つ枕を並べて暫し昔話に花を咲かせる。
 話は直ぐに後夜祭の話題となった。既に儀礼ばった大祭はアグスティで済んでいる。後夜祭はノディオンを統治するデルムッドらしい、若くて活気のあるものになるだろう。
 その後夜祭の間に神舞が行われる。それがレイリアの役目だった。それが終ってしまえば後は無礼講、ノディオンの民達は美貌の王妃の舞いに心を潤しながら、祭りを楽しむことだろう。
 元来、王妃が舞踏の捧げ役というのは稀なことである。出自が踊り子というのはないわけではないが、それでも妃の位を頂けば踊ることなどなくなるもの。ましてレイリアは正妃だ。
 だが、彼女は人に舞を見せることを何より好み、それができなければ自分ではない、とまで言い切った。そしてデルムッドもまた、舞台の上で輝くレイリアを愛していた。
 立場上、その舞は神に捧げる儀礼のためのものに限っているが、それでもレイリアは踊ることを続けている。


「楽しみだな。レイリアの神舞は本当に見惚れるもの。あれ、レイリアの出身地に関係してるのよね?」
「うん」
 レイリアは頷くと、クッションを抱えなおした。
「後夜祭に、旅芸人の一座も来るんだって。そうしたら、レイリアの踊りを知らないか聞けるかしら?」
「会うの、ちょっと難しいじゃない?」
 リーンは眉根を寄せると、悪戯顔で囁く。
「変装してこっそり」
「素敵」
 二人の娘はくすくすと笑いあうと、ベッドの中に潜り込んだ。


「ねえ、でもレイリア」
「なあに?」
「故郷が解っても、帰ったりしないわよね?」
「……莫迦ね」


(あたしの帰る場所は、もうとっくにノディオンなのよ)

 正確には、デルムットのいる場所。
 リーンは嬉しそうに微笑むと、瞳を閉じた。
 レイリアも、それに倣って目を閉じる。


 寝室に闇が訪れた。





 レイリアは故郷の記憶がない。祖国は彼女に存在しない。物心ついた時からレイリアは移動する劇団に所属し、自然と歌を習い、舞を踊った。彼女が劇団に拾われた時のものは一切残っていない。
 だがそんなレイリアに残る、過去の残滓がある。それが神舞だった。
 踊るようになったレイリアは、時間がある時になんとはなしにその舞を踊った。それが、我流にしてはどことなく洗練された舞だった。今は既に亡くなった舞の師匠が、それは神舞だと彼女に教えたのだ。神に祈り、捧げるための舞であると。
 では、レイリアは劇団に所属するよりも前に居たところも、やはり踊りに携わる者だったのだろうと考えている。親が巫女だったのか。それでレイリアは見よう見まねで踊っていたりしたのだろう。
 劇団は北トラキアを周り、その時々にレイリアは神舞を舞うことがあった。人々はそれに感嘆を覚え、常よりも多くの報酬が出たのだが、レイリアは悪戯に踊ることを拒んだ。
 彼女は踊り子だったが、やはり、神舞は神舞。簡単に踊ってよいものではないのだ、と感じたためであった。
 そのたまに、見物した人々にこの舞をどこかで見たことはあるかと尋ねたことがあるが、やはり誰も知らない。
 レイリアは故郷に愛着はなかったし、それほど己の過去に関心がなかった。そのため直ぐに聞くのは止めてしまった。
 それから多くの地で同じく踊り子の舞を見てきたが、その中にもレイリアの舞を知っているものはいなかった。


 だから、これからも知る者はいないだろう。レイリアはそう思っていた。










「旅芸人が?」
「はい。検閲で祭りの日の公演を一通り演じてもらいましたが、レイリア様の舞とよく似ていて、驚きました」
 その翌日、祭りの準備を進めていたレイリアの元にエレナが報告書を携えて現れた。クロスナイツを率いる大将軍、エヴァの一人娘である。
 何十年前の内乱で全滅したクロスナイツ。三つ子の三騎士の中で、唯一生き残ったのが次男のエヴァである。彼はバーハラでの訃報と一層過度となるグランベルの圧政の中ノディオンを支え、一人で後世のためのクロスナイツを育ててきた。その一人娘がエレナ。父と共に困難を生き延びたことはあり、聖騎士の名を戴く女騎士である。
「あたしの……どれに?」
 レイリアはしばしば、戦争孤児たちのために孤児院で個人的に踊りを披露していることがある。それであるなら、別におかしくはない。だが、エレナは端正な顔に笑みを浮かべて続けた。
「神舞です」
 レイリアは目を丸くして、途端落ち着きが欠けた。元々机に黙って座っていられるような性格はしていないのだ。
「レイリア様がおやりになる政務は、後夜祭を目前の今は少ないですから。どうぞ、ご見学に行かれてはどうでしょうか」
 悪戯をする童女のように笑うエレナは、でも、とそわそわと表情を巡らせるレイリアに頼もしい表情を向けて腰の剣を一叩きした。
「勿論、護衛役はわたくしをご指名くださいね」






「あれ、レイリアは?」
 忙しく立ち動いていたデルムッドは、執務室に居たはずのレイリアがいないのを見て取って疑問を口にした。傍らのトリスタンに視線を向けるが、黙って首を振られる。
「エレナが外出許可を取っているのを見ましたよ。あいつが今外出するなら、リーン様かレイリア様のお供なのではないでしょうか」
 姉弟のように彼女と過ごしてきた騎士、アルフレッドがそういうと、デルムッドは納得のいったように頷いた。
「レイリアは、この忙しい時にお忍びか」
 トリスタンが無愛想に呟くが、デルムッドは笑顔で首を振る。
「後夜祭になれば、とても城下には降りられないだろう。準備中の今なら、かえって目立たなくて祭りの雰囲気が楽しめるかもしれない」
「デルムッド様は、レイリアに甘いです」
「そんなことないさ。ほら、俺達はまだまだ仕事があるぞ」
 不機嫌そうなトリスタンを執務室から追い出すと、デルムッドは手元の書類を机に広げた。アルフレッドが同じく手元の書類を机に置いて、礼を払い部屋から出て行く。


 執務室には、デルムッドのための大きな机のほかに、洒落た机が一つ用意されている。室内でお茶の準備をすることもできるし、たまには彼女の仕事机にもなる。
 レイリアのための机は今は空っぽで、羽根ペンが一つだけ転がっていた。
「……甘いかな」
 ペンを手に取ると、デルムッドは気恥ずかしげに中空を見つめた。はっとするような美貌に、あどけない微笑みを浮かべる娘。本当は公妃などという窮屈な位など彼女にはいらないのだろう。ただ、デルムッドのために彼女は正妃の位についたのだ。
 初めて出逢った時に剣を向けられた。刃を持つ時が最も美しく研ぎ澄まされるのに、生死のやり取りが似合わない女。それでいて、常に血と夜の香りを漂わせている。


 デルムッドは、レイリアを愛している。

 そして、レイリアもデルムッドを愛している。

 問えば彼女はなあに、と笑ってそう答え返すだろう。だがデルムッドはその言葉を信じていなかった。
 否、信じられないのだ。
(心の奥底の冷たくて冷静な部分が推理している)
 デルムッドはひたすら感情的になれない男で、いつだって客観的に見つめている。
(だから彼女は)


 レイリアは、素直な娘だった。
 愛していれば愛しているというし、嫌っていれば舌を出して罵る。思うことを心中に留めてはいられない性質であり、自分に対する揺らぎがない。
 彼女は己を信じているし、デルムッドが好きだという、己の感情を信じていた。


(デルムッドは静かにレイリアの机に手のひらを置いた)

(俺は不安なのだ)

 見上げれば窓の外には暗雲が立ち込め、急な雨が降り出していた。城下は慌てて後夜祭の準備を撤収している。デルムッドもまた、忙しく指示を飛ばさねばならない。





(幼げな少女と最後に話したのはいつだろう)

(聖戦のあの時を最後に会っていない)





「奥方様。外は大変な雨です。今夜は止みそうにありません……濡れてしまいますが、暗くならないうちに戻りましょう」
 旅芸人達のテントにも、急激な雨は降り注いでいた。エレナは右往左往と駆け巡る芸人達と一緒に先ほどまで席を外していたのだ。
 旅芸人達はやはり、レイリアと同郷らしく、彼らは口々にマンスターの話をしていた。だとすれば、レイリアもマンスター出身なのだろうか。それにしてはトラキア軍も加勢したエレナの知らない聖戦で、誰も彼女の神舞を知っている者が名乗り出なかったらしいけれど。
 でもそれは、舞に携わらない者だったからだろう。何しろ華やかな踊り子達は、戦下では安住が難しい。解放軍に参加しているものに、そのような心得があるとは思えない。
 楽しそうに舞の話をしているレイリアをその場に残し、エレナは少しだけ席を外します。と駆け回っていたのだ。


「そうですね。早くお帰りになったほうがいいでしょう」
 エレナの見たところ、神舞を踊るこの男は大変礼儀正しかった。表情も朗らかで、舞手ということで華奢ではあるが、なよなよしたところがない。
 だが、どこか安心できない男だ、ともエレナは感じていた。
「そうね……エレナ、帰りましょう」
 ゆるりと立ち上がるレイリア。その手に見慣れぬ短剣を認め、エレナはぎくりとして注視した。
「奥方様、その剣は?」
 彼女は常に護身用の剣を独自に身につけている。そんな短剣はエレナの記憶にはない。
「舞に使用する剣よ。……神舞は、祭具をもって踊ることが多いから」
「失礼を」
 エレナはレイリアからその短剣を受け取ると、慎重に鞘を抜く。だが呆気にとられたことに、鞘の中に納められているのは極普通の鉄の身であった。魔法剣の様子は無いし、バサークの剣のような不安要素も見受けられない。丁寧に装飾がされているだけだ。
「もう。心配性ね」
 レイリアは艶やかに微笑んで、エレナの手から短剣を受け取った。お忍びのために大きめに用意された外套を羽織り、美しい髪や、容貌をすっぽりと隠してしまう。


(気のせい?)

 エレナは湧き上がる悪寒を押し込めながらレイリアと共に雨の下を駆けて行く。
 傍らの女主人は、常よりも尚一層、寒気がするほど美しい。





















「まだ、ある」

 闇のローブを纏った端正な男は、能面のように顔を動かさずそう呟いた。彼の一族は、神聖にして純粋な、ただひとつの神に仕える者だ。長年を神のために捧げ、舞を踊ってきた。
 彼は神を崇めずにはいられないし、神を呼び出さずにはいられない。


(そして、憎まずにはいられない)

 マンフロイ様は正しかった。あの三つの光は失わなければならなかったのだ。
 父は、正しかったのだ。幼い闇姫に何を眠らせるかを、正しく選んでいた。


「レイチェル姫が、ノディオンに」
 それは、滅びたマンスターの最後の姫君の名であった。古きマンスター。聖戦士よりなお古きマンスター。その地下には闇のための祭壇。今はトラキア王によって封じられ、光の力に染めつくされてしまった場所。
 レイチェルとは、その祭壇で最後の聖別を受けた姫であった。
「あの巫女姫さえあれば」
 男の能面のような表情は動かず、淡々と呟いている。同調する他の者たちは感情に顔を染め、口々と復讐を口走っている。
 馬鹿な。これは個人的な復讐ではいけない。我々の憎しみも、怒りも、羨望も。全ては神のために。
 だが、能面のような表情は、怒りと紙一重であった。
「まずは、三つの光を」
「仕掛けていたな?」
「そうだ」
「そうだ」


 偉大なる大司教は三つの光を憂いていた。かくして殺された三人の英雄。シグルド、キュアン、エルトシャン。
 だが彼らにはそれぞれ息子がおり、それぞれセリス、リーフ、アレス。
 アレスがセリスを助け、セリスがリーフを助け。そうして、父はリーフに殺されたのだ。


 そこが、マンスターの聖地。だからこそ、闇姫でなくてはならない。
(男は、既に神の復活ではなく復讐にかられる己に気がついていない)











 復讐は始まる。闇の香りが充満する。
 アグストリアに闇の色は薄く、エレナはその悪寒にロプトと名付けることはできなかった。


 鉄剣は、ただの鉄剣である。
 大事なものは、全てレイリアの中に眠っているのだ。


 闇姫と呼ばれる、暗闇の舞踏家。神へと捧げられる姫巫女。レイリアは自室で刃を見つめていた。黒曜石の瞳はどこかぼう、と翳み、記憶は白濁しながらも鮮明だ。
 奥底に刷り込まれた古の経路が復活し、脈々とレイリアの中を巡っている。たった一つの託宣が彼女の中で色づき、活性化を始めていた。
 レイリアは、いやレイチェルは静かに刃を鞘に納めた。
 刃は闇を孕んでどす黒く、深遠の黒に染まっている。
 赤く熟れた唇が開かれ、艶かしく蠢いた。


(あたしはだあれ)





「だから、先ずはヘズルよ」





 彼女は椅子から立ち上がると、晩餐の席へと向かった。