ねえ、ずっとこうしていられたらいいね
瞳を細めてそういう彼女が酷く愛しかった






午後の一幕





 パチパチと暖炉の火がはぜている。
 石造りの城は、ただでさえ冷える。ノディオンの城も例外なく、だからたっぷりとタペストリーや絨毯を敷き詰めていた。
 統治機構が崩壊して久しいアグストリアだが、ノディオンはまだマシな方だ。少なくとも無法地帯ではない。
 だが難民で溢れかえった数年間で農作物の貯蔵はまるでないし、現在は難民を少しずつ帰省させているところだった。死者が多かったので労働力が欲しいと言うこともあるが、それは他区域も同じなのだ。


 ノディオン公と呼ばれる男が、その暖炉の前の椅子に背を預けて剣の手入れをしている。椅子に座ることなく地べたに座り込んで行ってしまうのは、もう十何年かけた癖と呼んでもいい。
 公はすっと伸びた背に、豪奢な金髪をしていた。常は整えて固めてあるが、こうして館で私的に過ごす時間には最近はそのままでいる。彼の唯一の伴侶である妃がそれを好んだからだ。まだ若いはずだが、大人びた目元は空色をしていた。
 その直ぐ横で、特別長い毛の絨毯を敷いた温かい場所。そこでクッションを抱きしめて転がっている女は公妃である。彼女は出身が確かではなかったが、ノディオン公は戦時に置いて己を支えてくれた彼女を正妃と決め、他に側室は要らないと明言している。
 妃は美しい女で、それは女性としての美しさであった。踝まで届くばかりの長い黒髪がアップにされていて、黒を塗りこんだようなそれは白い肌にパラパラと落ち、今は絨毯の上に広がっている。瞳は極上の黒曜石をはめ込んだかのようなきらめきであり、ふっくらとした唇は今は動かず、夫である男の所作を見守っている。


 二人は既に夜着に身を包んではいるものの、褥に向かう様子は無く湯浴みの後のまどろみを楽しんでいる。
 公が剣の手入れをする横で妃がそれを眺めている様子は幾度と無く繰り返した時間だった。
 妃は教育が無く、公の公務を手伝うことはできなかったので、普段は生活が一致しないのだ。妃の昼間は城下に降り、福祉の官と共に民を訪れるのが常である。






 ノディオン公は、デルムッドはふと動作を止めて傍らに転がる妃へと視線を向けた。妃レイリアはこれまでずっとデルムッドを見ていたのだから当然視線が合う。
「退屈じゃないかい?」
 レイリアはうつ伏せに姿勢を変えてデルムッドを見上げて答えた。
「そんなことないわ」
 デルムッドは退屈なの?と聞いてくる。当然デルムッドは首を振った。
「じゃあいいじゃない。……あたし、デルムッドが剣の手入れをしているところ、少し色っぽくて好きなの」
 ふふ、とレイリアが微笑む。デルムッドは苦笑するとレイリアの瞼に唇を寄せた。
「俺は、君がそうして見上げてくるところが好きだ」
 わざと音をたてて落とされた口付けに、レイリアが嬉しそうに笑った。
「今まで手入れを見ていたときは、そんなこと考えていたのかい?」
「そればっかじゃないわよ。……んん、でもね、デルムッドが手入れをしてるところ見るの好きよ」
 かっこいいから。
 そういって笑う様子は、どこか幼い童女のような微笑みだ。
 レイリアはその美貌こそ大人びたものであったけれど、微笑みだけはいつまでも幼い。
「俺には君の髪の手入れはさせてくれないのに」
 長い黒髪に指を絡めると、湯浴みの後でしっとりと濡れた手触りが心地よい。これだけ長ければ相当手入れにも時間がかかるはずなのに、レイリアは化粧や髪結いの時にはデルムッドを追い出してしまうのだ。
「女の準備中に踏み込むものじゃないわよ」
 ずるいな、と呟くとレイリアはまた笑った。






 この婚姻を結ぶ前に、多くの結婚話が持ちかけられた。
 デルムッドはアグスティにいるアレスの、自他共に認める片腕だ。今でもノディオンにいる時間の方が短いくらいだった。姻戚関係を結びたいアグストリアはまだまだ現存している。
 レイリアは結婚したいとは一度も言わなかったし、多分一緒にいたいとも言ってくることは無かっただろう。ただデルムッドが彼女を繋ぎとめたくて交わした約束だった。
 姻戚で立場を補強する必要があるほど弱くない。一緒に居て欲しい女に、一緒に居る約束をしたのだ。


 レイリアとは政治の論議は発展しないし、財源の話も彼女にはわからない。それでも、一番憂慮事について話す相手はレイリアだった。彼女は彼女なりに、誠実な返答を返す。
 その答えの大部分は実際には役に立たないものだけれども、無意味じゃない。
 彼女の声は精神安定剤だ。
 ……全く、いつのまにこんなところまで嵌まってしまったんだろう。






「ね、どうしてアレスが王様なの?」
 レイリアは傭兵時代のアレスと知り合った。彼が王子であるとわかり、また今や王となった今でもアレスに対する態度が変化しない。立場上不味い、とは思っているらしく、公式の場ではたまに口元を押さえていることもある。
「どうしてか?」
 アグスティ王宮で、アレスが仕事をさぼることについて溜息をついていた時に不思議そうにレイリアは聞いた。
「そうよ。だってアレスってあんまり深く考えないし、言っちゃあなんだけど馬鹿なところあるし、お仕事はデルムッドにやらせてばかりじゃない」
 最後だけ声のトーンが上がって、彼女がつまり自分を心配しているんだとわかる。
「そうだね。落ち着きが無いしね」
「わー。認められちゃったわよ、アレス」
 居ないアレスに突っ込みをいれた彼女に目を細めて、言葉を捜す。
「なんというか……俺が元々ティルナノグで育ったのは話したよね?」
「うん」
「そこにはセリス様も、シャナン様もいらっしゃった」
「王様アレスに失望しそうよね」
 少し考えてレイリアは言った。彼女は本当にはっきり言うものだ。
 アレスに失望、と考えてさもありなん、と思う。事実アルフレッドは”アレス様”と話して一分で切れた。義父のノヴァから聞いたエルトシャンの偶像が、息子のアレスで粉々に砕けたらしかった。
「……俺は、多分セリス様も、シャナン様も俺の仕える王にならないんだ」
 デルムッドはイーヴの遺言を連れたトリスタンの言もあって、ずっとアグストリアを意識から失せることがなかった。自分は片腕となるべく生まれたのだと思っていた時期があったし、見つからなければ自ら王となる選択だって視野に入っていたのだ。
「陛下は、勉強は嫌いだし、愛国心はないし、慈悲もないし……」
 レイリアが一々頷く。
「……でも、守ると決めたものは、絶対に守り抜こうとする人だ」
「んん……そうね、アレスって義理堅いところがあるものね」
 義理堅い、か。これは絶対に今日中に、と言った書類は確かにその日のうちに終わらせていた。文字は汚かったけれども。
「それに」


「……陛下は、俺が必要だから」
 レイリアは目を見張った。
 多分、そういうことなのだ。
 アグストリアは俺が投げ出せば瓦解する。きっと、そういうことなのだ。
「……つまり、アレスはわがままプーってことね」
 謎は全て解けたかのように呟くレイリア。
 デルムッドは吹き出した。






「デルムッド、赤ちゃん好き?」
 剣の手入れをする手が止まった。
「……その問いの元になった事象について聞いても?」
「あのね!今日行った商家の奥さんに最近赤ちゃんが生まれたのよ!」
 高揚したように頬を染めて、レイリアはデルムッドの手を取った。
「手なんて、こーんな……紅葉の葉みたいに小さくて可愛いのよ」
 レイリアは比較対象に握りこぶしを作って見せたが、剣を振るうデルムッドの手と、舞手であるレイリアのそれとでは既にかなり違う。
「……子供は、あまり見たことが無いな」
 デルムッドはティルナノグでは下の方だし、隠れ里で同い年はあまりいなかった。オイフェと検察に出向いた際も子供狩りの影響があって子供は外で遊ばない。
「勿体無い。うーん……デルムッドの小さい頃とか、きっと可愛かったんだわ。今度ヴェルダンとの会合があったら、レスターに聞いてみようかしら」
 少し、止めて欲しいと思いつつ解らないでもない。
「君の方が可愛かったと思うけど」
 レイリアは頬を赤くして「それくらいの頃の知人なんて覚えてないわよ」と一人ごちた。






 取り留めの無い時間こそが貴重だ。
 これは、きっと戦争を味わったあの記憶が教えてくれたこと。











「ね」
 天井を見上げながら呟いたレイリアの髪の一房を、優しく梳く。
「ずっと、こうしてられたらいいのにね」
 デルムッドの中で愛しさが募って、そっとレイリアを腕の中に閉じ込めた。



 彼女が”ずっと”と口にしたのは、これが初めてのことだった。










(腹部を熱い痛みが襲った。零れ落ちる熱い滴り。唯の鉄剣は暗い闇を帯びている)

 レイリア。

(昏い瞳は尚深く、瞳に映りこんでおかしくない自分の姿さえ見えない)

 レイリア、聞こえるかい?

(庇われたアレスが呆然と名を呼んだ。良かった、アレスは無事だ)

 君に伝えたいことがあるんだ。

(ごぼりとこみ上げる錆びた鉄を黙殺した。目の前の女は彫像のように完全な美を誇っている)

 レイリア……。

(デルムッドは、レイリアにキスをした)

 君を、ロプトの呪縛から解き放とう。





 レイリアが激しく咳き込んだ。腹の奥に孕まれていた闇の種が苦しくて苦しくてたまらない。
 血の香りが吐き気を呼んだのは初めてだった。嫌だ。体の中に何かある。
 両手に握られていた短剣の柄から手が離れた。蝋人形のように白いレイリアの顔から一切の熱が消えていく。
 仰け反る喉。レイリアの口内から飛び出したものは真闇の種だった。デルムッドはそれに手を伸ばして、握りつぶす。あっさり潰えた。
 糸が切れたかのように崩れ落ちるレイリアを支えようとして、デルムッドもまた膝から崩れた。
 刺されたのが自分でよかった、と思う。また同時に謝りたかった。もっと早くにできたかもしれないのに。


 デルムッドの瞼が落ちる。ああ、世界が見えない。










 伝えたいことがあるんだ。

 君を愛しているよ。