その風を辿る黒絹の髪に
その月を宿す白い肌に
その熟れた果実の唇に


過ぎ去った輝かしい日を思い出したのは









私の姫君





 昔々のお話です。
 トラキア半島は、南北との間で争いがありました。
 南北の国境を分かつのは歴史深きマンスター。かの地は常にトラキアとの争いに見舞われていたのです。
 南トラキアは竜騎士を擁すために戦線はマンスターに限られたわけではありません。
 ですので、その地は陸戦における最大の戦地だったのです。


 ここに一人の王妃がいました。
 彼女は艶やかな黒髪と黒曜石の瞳を持った美しい女性でした。
 王妃はその身に子を宿し、そのため静かな別荘で日々を営んでいたのです。
 王妃が住まっている館の傍で、ある日南北の争いが勃発したことがありました。
 王妃のために裂かれていた人員、目立たず潜入しようとした斥候。彼らは両方隠蔽のために普通の服を着ていたので、その争いは一つの村を巻き込むこととなりました。
 戦いは丸一日続き、喧騒を王妃は窓際で静かに聞いていました。


(あくまがいます)

 その夕刻、王妃にそんな伝令が届きました。村の中に悪魔が居ると。王妃は優美な眉を潜めました。
 この大陸で「悪魔」などと呼ばれるのは暗黒神を信望するものだからです。
 けれどもここはトラキア。南北における戦乱の続く場所では、暗黒神より同じ半島に住まう民。
 悪魔という言葉を聞くことは、しばらくないことでした。王妃は席を立ち村へと向かいます。慌てて追う騎士。
 村の一つの家で、王妃が見たのは凄惨な光景でした。


   ギラギラと光る瞳には何も映らず。
   足元には国を選ばず死者の山。
   全身を濡れた返り血で染め上げ。
   髪は、真白に抜けていた。


(く る な)

 まだ15ほどでしょうか。少年を包むのはただ恐怖。ただ全身から発するのは悪気。騎士は王妃をその場から立ち去らせようとしました。
 王妃はしかし、こともなげにそれを制し、少年の瞳を見つめました。
(怖がることはないわ)
 そして、得も言わぬ美しい微笑みを浮かべました。
(なにをなさいます。あくまなのですよ)
 そんな騎士に王妃は説きます。お前達の瞳は節穴か、これは憐れな村の子供。どこが悪魔であるものでしょう。
 王妃は少年に微笑みました。
 少年は、真紅に染まった剣を取り落とし、やがて堰を切ったように泣き出したのです。
(お前に名を与えてあげる)


 ”ジャバロー”
 お前の命は私が拾った。




 そうしてそれから、少年は王妃の傍で生きることになりました。



 若い男が王妃の傍にいることに、王は難色を示しましたが王妃はおかしそうに笑います。
(ジャバローはまるで赤子なのです。そのように気になさるなんて)
 王はそれもそうか、と思って少年を許しました。少年は王妃が拾った時を境に記憶を失くし、その精神を赤子のころまでに退行させていたのです。
 身重の王妃はどこへいくにも少年を連れ歩き、様々なことを教えて行きました。
 礼儀。剣術。政治。勉学。そして信仰を。
(王妃様、王妃様。おなかに何をいれているんですか)
(私は子供を身篭っているのよ)
(こども?)
(そうよ。命は私たち女が育むものなの)


 女が人を作るのよ。

 少年は驚いて王妃の腹を見つめました。
(かみさまですか)
 王妃は笑います。
(女が神を宿すのよ)


 赤い血を見るたびに怯える少年に、王妃は艶やかに笑って嗜めます。
(血は恐ろしいものではないのですよ。私たちの中に常に流れ、命を育むもの。赤は生命の色)
(いのち?)
(そうよ。赤を命だと思ってみてみなさい。きっともっと美しく尊いものに見えるでしょう)
 少年は、やがて赤を至上の色と見るようになりました。
 血を流した訓練を終えた少年に、王妃はうっとりと呟きます。
(ジャバローは赤が似合うわね)
 少年は王妃の長い髪を手にとっていいました。
(王妃様の黒髪以上に、赤が似合うものはありません)


 いのちをはぐくみ、せいめいをつなぎ。あなたさまは至上のおかた。

 王妃が女児を産む頃には少年はすっかり精神を正常なものとしていました。彼は忠実な騎士として王妃に仕えることとなったのです。
 王妃が言いました。神様の名前は覚えたかと。
 少年は頷いて神の名を唱えました。
 王妃は満足げに頷きます。
(私の娘は神の子を産む娘になってよ)
 神の子を。
 少年はこれまでと違った色合いで王妃の娘を見つめました。瞳に映る赤子の姿は何より神聖なものに映りました。
 王妃は娘に洗礼を受けさせます。それは王へは秘匿されたもので、城に隠された地下室でひっそりと行われたものでした。
 少年はその場に面通りを許され、儀式を目に焼き付けたのです。


 姫が祈りを捧げられ。
 姫が祝福を受け。
 姫が闇を孕んだ様子を。


 ロプトゥスに捧げられた姫君を、少年はどれほど神聖なものとして捉えたことでしょうか。少年はそれ以来、幼子の姫を守ることを旨とするようになりました。

(王妃様)

 流れる黒髪に指を絡めながら、陶然と少年は囁きます。

(私の命は、貴女のものです)

 王妃が二人目の子供を産んでしばらく。マンスターに南トラキアが攻め入ってきたのは丁度そんな頃でした。





(姫は。王妃様はどこだ?)
 少年は、もはや青年と呼ぶ年頃の男は混乱の境地の中城を駆け巡りました。
 マンスター王は既に戦線にて命を落としています。レンスターに救援を頼んでいたのですが、間に合わなかったのです。
 青年は城の中に二人の姿を見つけることが出来ず、地下室への扉を開きました。彼の心当たりはもはやそれだけでした。
 姫に祝福を授けた間に、果たして人の姿はありました。全部で三人。
 ひとりめ。
 王妃の名を呼ぶ青年の姿に、王妃は何かを呟きましたが音になりません。
 彼女の命は、胸部から流れ落ちる赤い血が落ちるたびに消えていっていたからです。
 姫の口内に、その血を注ぎ入れることに身命を賭していたからです。
 ふたりめ。
 姫は母の血液を注がれながらも真黒の瞳を開いて身動き一つしません。
 小さな喉がコクリ、と動くたびに姫の宿す輝きが増すのが青年にはわかります。
 姫に、最後の洗礼を。
 王妃の目的がそれであると青年は思いました。
 さんにんめ。
 黒衣の男は、祝福を授けられている姫に無粋にもその汚らしいしわくちゃの手を触れさせていました。
 姫のつやつやとした白磁の肌にその手が寄せられていることに、青年はいたく立腹します。
 男の祝詞の意味はわかりません。
(姫を穢すつもりか)
 青年は手に馴染んだ剣を抜きました。それは、もはや真紅が消えることのなくなった剣……魔剣へと昇華したあやかしでした。


(姫、姫君。ジャバローがおります)

 剣が邪魔だと、青年は真紅のあやかしを打ち捨てました。後に暗黒の剣と呼ばれるあやかしを放置し、姫を抱えて走ります。既に命のこときれた、王妃に何の感慨も抱くことはありませんでした。
 しかし、奮闘虚しく青年は姫を見失うこととなります。
 青年と別れた姫を見つけたのは幸いにして乳飲み子の王子を抱えた乳母でした。
 ですが重傷を負った乳母もまた、姫を手放してしまうのですが……。


 そこで、姫の行方は完全に途絶えます。
 青年は後悔と執着と、姫への信仰を抱えて生きることとなったのです。




   青年は、知らなかったので。
   ベルクローゼンの最後の魔法。
   青年は、知らなかったので。
   姫が何のために育てられるかを。
   青年は、知らなかったので。


   ただ、姫を守る忠実な騎士であろうとしたのです。















 パシャン、と水音がした。
 水源を探していたジャバローはその音に足の向かう先を変える。街にはまだ遠い森で、水が乏しくなっていた。
 再度パシャン、という音がしてジャバローは眉を寄せる。
 おそらく先客だ。


 水源が見えた。こんな森にあるのは不思議に思うような湖だ。本当に北トラキアの大地の豊かさには脱帽する。南トラキアにも出向いたジャバローはそんなように思う。
 こんなに大きな湖であるなら、もう少し人員を連れてくるべきだったかもしれない。アレスの金髪が土埃に褪せていた様子を思い出してそう思った。
 アレスは気にしていないようだが、あの赤が映える金髪が、自分は気に入っている。


 湖で水音を立てていたのは一人の女だった。なんて無用心な、と思う。女の一人旅であるなら正気の沙汰ではないし、傍らに置かれた剣は如何にも実用的ではない。
 女は疲れた足を休めるように、靴だけ脱いで水に浸していた。それが軽くばたつかせているので水音が立つのだ。
 ジャバローの消そうとしない気配に、女が水音をたてるのを止めて振り返った。




(意識に鮮やかに蘇ったのは、あの輝かしい記憶)



 風を辿る黒絹の髪。
 月を宿す白い肌。
 熟れた果実の唇。


 彼女は王妃に生き写しだった。どこかあどけない表情だけが、父王から継いだものだ。
(これは、運命を信じるぜ)
 もう、命を落としてしまったかと。己の無力さに何度悪夢に飛び起きたかわからない記憶だった。
 だが彼女は再び自分の前に現れ、赤い唇が訝しげに歪むのをジャバローは夢見心地に見つめた。


「――レイチェル様」
「……?あたしを知ってるの?言っておくけど、あたしはレイリアよ。聞き間違いじゃない?」


 マンスターが落ちたとき、姫は、レイチェルは4歳に満たなかった。おそらく忘れてしまっているのだろう、レイ、の部分だけ覚えていたのだ。
 忘れていたとしても。ジャバローは確信する。彼女が彼女である理由。闇の祝福は彼女の中に孕まれている。


 もう、手放すわけにはいかない。ジャバローは唇を湿らせると、慎重に言葉を選んだ。
 穢れ無き闇の姫。彼女をこれから自分が守っていくのだ。
「……どうした、女が一人旅とは。連れの商団とはぐれたのか?」
「所属の劇団がね、解散しちゃったのよ」
 レイリアは軽く水を切って靴に足を突っ込みながら答えた。
「劇団?ああ……そういえばアルスターの方に人気の劇団がやってくる、とかいう噂があったな。潰れたのか」
「色々あってね」
「それじゃあ、お前も何か芸をやるのか?」
 ジャバローの瞳の色に危険なものを見つけることが無かったらしく、レイリアは少し気安く答えた。
「あたしは踊り子なの。こんなとこじゃ見てくれるお客さんもいないから早く街に行っちゃわないと」
「……そういう割には、暢気だな」
「煩いわねー」


 会話は軽いものだったが、ジャバローはかつてなく緊張をしていた。
 失敗は許されない。違和感無くやり遂げなければいけない。


「……ふむ。踊り子か。俺たちは丁度アルスターに行くところだ、一緒に行くか?……娯楽が少なくてな、きっとあいつらも喜ぶだろ」
「傭兵か何か?」
「ああ。女に干上がってる奴等も多いけどな」
 ジャバローの下品な笑みに、レイリアはカラカラと笑った。隠蔽しないジャバローの言い草は嫌いではなかったらしい。
「いいわよ。ただしあたしは娼婦じゃないの。そこのところは間違えないで、堂々と口説いてきなさいって言ってあげてね」
 誰が娼婦だと思うだろう、とジャバローは思う。
 彼女の抱くカリスマは、高貴な色をぷんぷんさせているというのに。
 ジャバローは軽く笑って、よろしくな。と手を差し出した。レイリアの白い手と触れる。



 ……懐かしい、マンスターの風がした。





 さあ、レイリアを傭兵団に連れて行こう。野卑な部下が彼女に手を出すことなんて、本当は論外だ。庶民が触れていい女ではない。
 アレスはどんな顔をするかな、と少し悩んだ。あれはヘズルの後胤だったか。
 悩みは増えたが、少なくとも昨日よりずっといい。あの時守れなかった姫が今、自分の手元にいるのだ。


 丁重に、丁寧に育てよう。
 高貴に、聡明に、純真に、艶美に。




 神を産むべき、私の姫君。