苦手な存在というものがいる



巨大な本棚
見上げるほどに大きなそれを、少年は目を凝らすように見つめる
十二神の降臨……違う
トラキア諸民族……違う
精霊の秘儀……興味は沸くが違う


もう長いこと人の出入りはないようだった
申し訳程度の処方のおかげか埃は少ないが、本臭い


こんな所、さっさと出るつもりだったのに
頭を振ると軽快に舞う銀紫の髪を持っている
少年は紅い瞳を滲ませた


「こちらの方にはないな……アーサー、どうだ?」
ないです
もうそう返事をしてしまおうか
常であれば何十分も前に言ってしまっていたはず
ずるずると付き合ってしまった理由はなんだ


作物の育て方……惜しい
やさしい井戸の育て方
違う、掘りかた




「あったぜ」
ただ少し高い位置にあるけれど


アーサーの言葉に呼ばれ
駆け寄ってくる白い洋装の少年
白なんて汚れる色、アーサーは好きではない
だが、彼に最も似合う色はそれだろう


「それだ。ありがとう」

ガーネットの瞳を抱え、少年は鮮やかに相好を崩す
大地の髪に高貴な白
マスターの称号を目前に控える無類の騎士






苦手な存在というものがいる
アーサーは曖昧な微笑みでリーフ王子を迎えた






白水晶の人





「リーフ王子?」
 どうして呼びかけてしまったのだろう。
 埃の入らないように丁寧に閉じられていた扉を抉じ開けようとしていた少年がいた。彼のことは知っている。いや、この軍にいて知らぬものはいないだろう。同胞軍たるレンスター軍の総指揮官。
 鮮烈なガーネットの瞳が振り返り、リーフはアーサーの姿を目に止めた。


「アーサー、丁度良かった」
 ガタガタと扉を揺らしながら告げる。ほどなく扉は開いた。
 あまりに無造作に開けるものだから思わず埃の逆流を覚悟する。当然、そうならないようにとしてあったのだからそんなわけはない。
 扉の向こうからは本の匂いがした。
「ある本を探しているんだ。一緒に探してくれないか?」
 確かにその声音は問いかけるものであったが、そこに拒否のできない波を感じる。そこに嫌味は感じない。命令すること、要求することが板についた証であった。
 表情は柔らかいのに跳ねつけることができず、アーサーは不承不承頷いた。
「いいぜ……ですよ。何を探してるんですか?」
 ありがとう。リーフは表情をほころばせた。容易に感謝を述べるところは王子らしくなくてアーサーを困惑させる。


(貴人らしくしていれば、もっと)





 真っ直ぐ室内に足を踏み入れながら口を開く。
「この部屋にあるという保障はないんだけどね」
 リーフの動きを見て取って、アーサーもその後を追った。本の匂いがふうっと襲い掛かる。本を探す、と言うだけあってそこは書室であるようだった。
「図書室は他にあったと思うけど」
「そちらにはフィンに行ってもらってるんだ」
 なるほど道理で御付きがいないわけだ。


 リーフといえばついてまわるのが彼の周りにいる彼曰く”御付き”だった。一番姿を見かけるのは青い髪の騎士と金の髪をした娘だっただろうか。つかず離れず、大抵誰かレンスターの者を連れている。
 一人を好むアーサーからすればうっとおしくはないだろうかと思う。
 リーフ自身は横に後ろに誰が居ても特に気にする様子は無く享受しているようだった。
(そういうところは)
 リーフが書架を指差しながら振り返る。
(理解できないので)
 己の紅より深い色をしたあかがねが遮光された暗闇の中で色を失った。
「井戸を掘る方法についての本なんだ。大変だろうけど、頼む」


 返事をする前に、リーフは己も書架の中に消えていった。





(ランプは)
 どこだろう、と扉の近くを探した。そういうものは入り口の近くに大抵あるものだ。
 灯り一つ持たずに書架に入ったリーフは果たして探せているのだろうか。慌てて戻ってきたりはするだろうか。
 古いランプを見つけて数分待ったが、リーフは灯りを探しにこない。アーサーは仕方なしにランプに火を入れて自分も本を探し始めた。


 トラキアは暗い、と思う。
 当然ここが室内で、窓も閉じられているせいもあるだろう。だがそれと比較してもトラキアは暗い夜だった。
 貧しい南トラキアだから油を節約しているのだろうし、岩山が多いというのもあるだろう。だが雪の白灯りに慣れた瞳は暗さに奇妙なものを感じるのだ。月が出てさえ木陰は漆黒の闇に落ちる。


 ランプを持ちながら書物の背表紙を確認していくと、前方でコツ、と鈍い音がした。
 暗闇と相俟って心のどこかがびくりとざわめくが書室にはもう一人いるのが確かだからそちらにランプを寄せていく。
 想像に間違いは無く、そこで眩しげにこちらを見ていたのはリーフだった。
「暗くないの……ですか?」
 瞬きをしながら不思議そうな顔をしたリーフは、納得がいったらしく ああ、と頷いた。
「私は夜目は利くほうなんだ」
 それにしても明るい方が悪いということはないだろうに。そう言うとリーフは明るいと目立つから、と笑った。
 そういえばこの王子様は長年逃亡生活だったらしい。その点も関係するのだろうか。
「今は別に目立たないようにする意味はないな……けど、アーサーが使っていていいよ」
「ん。サンキュー……です」
 リーフは微苦笑した。


「先からどうしたんだ?アーサー」
 自分でもそう感じたらしい、アーサーはランプを持たない方の手で頭に手をやった。
「王子様だし。んー・・・皆そう呼んでるから、ですか」
 フィーも怒るし。
「やりやすいように話してくれて構わないよ。私は気にしない」
「そうか?じゃあ、俺も気にしない」
 拘る人ならそこは怒っていいような口ぶりだった。心が広い人でも、大胆なその言葉には苦笑を交えただろう。
 けれどもリーフは一つ頷いた。それで解決したかのようだった。
(そうして気軽に笑うから)
「それでは捜索に戻ろう」
 暗闇の中でも背表紙を読むことのできる人が、先のように足を進めていく。



(そうして気軽に笑うから)

(距離が分からない)










「何に使うんだ?」
 『やさしい井戸の掘り方』という、どうにもセンスの良くない本をめくりながら何度かリーフは頷いた。
 本を覗き込みながらアーサーは不思議に思う。どうして今更井戸なのだろうか。彼らのしているのは戦争だから必要なことはあるかもしれないが、幸か不幸か相手は文明国なので大地は整えられているはずだ。
 井戸を掘るにしても現地の住人が最もそれを熟知しているはずなのだから、リーフがそんな本を探さなくても問題はない。
「南トラキアは地盤が固いんだ」
 リーフの言葉にアーサーは不思議そうに眉を寄せた。固い地盤を掘るのが大変なのは分かるが、ならばやはり住民が最も知っているはずではないだろうか。
「ここ何十年、トラキアは土地開発を怠ってきた。丁度……南北の争いが始まって何年か経った頃か」
 ああ。それならアーサーにも分かる。
 トラキアの主産業は、傭兵だった。
 彼らは農産業に失望を抱き、北からの補給が見込めない情勢でミレトスから食糧を買い入れるために貪欲に外貨を稼いだのである。
 戦うことが仕事で、養っていくためには人口が多すぎてもやっていけない。
 だから、井戸を掘る理由はなくなってしまっていたのだった。


「それでも昔はやっていたはずだから、どこかに記録が残っているかもしれないだろう」
 リーフを本を閉じると抱え込んだ。
 つまり、本当にあるかどうかも分からなかったということだ。アーサーは呆れ声を出そうとして失敗した。
「……誰かに言いつけておけばいいのに」
 発せられた言葉はどこか引きつって情けないものとなった。そうすればいいのに、と思っているのは本当だ。思い描くようであればいい。
 リーフは不思議そうにしてから軽く笑った。照れたような笑みだった。
「本当にあるかわからなかったし……」
 フィンには手伝わせてしまったけれど。
「だが私だけでは見つからなかった。ありがとう、アーサー」


 きびきびとその場を去ろうとする背中。
 アーサーは無意識に歩数を数えた。


 いち、に、さん

 何歩離れている?










「リーフ」
 少年が振り返った。確か自分より年上である。背丈は同じほどであったが万技を振るう彼の身体はアーサーとはまるで違う。
「どうしてだよ」
 わけのわからない顔をされて、アーサーは後悔に陥った。こんなことは全く自分らしくない。自分らしくできないのでイラついて仕方が無い。
「王子なんじゃないか。たくさんの者がかしづいてる。指図をして見守っていればいいだろう」
 リーフはそれでぼんやりできるような気性の持ち主ではない。
 わかっているのに納得できない。わかっていることが納得できない。他人のことなんて、知らなくていい。
「労苦を、黙って見守れるほど余裕のある時ではないだろ?」
 リーフは困っていた。どう返事をするべきか分からないのだ。それは分かる。どうしてこんなにも、理解できる行動をする。



 全く理解できなければ、知らない顔をして忌避していればいい。
 何もかも理解できる存在なんて居ない。
 傍にいて、心地よくも無い。


「もっと、”リーフ王子”らしくしていればいいじゃないか」


 しまったと思った。





 リーフは表情を固くした。この人はこんなにも、感情を潜めるのに慣れていない。愛すべきことだ。それだってらしくない。
 言うべきではない言葉を言った。少なくとも、特に親しくも無い自分が言うべき言葉じゃなかった。


 踏み込むところではないのに。
 どうしてこの人の前だと距離を見失うのか。
 近寄らないほうがいい。




「だが、私はこうしたい」
 肝に銘じておく、と呟きが漏れた。
 コツ、と聞き触りのよい音と共に気配が消える。





















 この人は、水晶のような人だ。
 煌く光線の通り道。色を変幻させて見せて自分は平気な顔をしている。


 迷い込むと、呑まれる。















(04/06/30)
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