記憶とあまりに違うことに彼は吐息を留めることができなかった 庭園は荒れ果て 回廊は汚れ 一目見て金品と解るものは壁さえ剥ぎ取られている (簡素だが高価なものは残っているのが笑いを誘う)
エフラム達を城内へと招きいれたのは内部の者だった
知っていた ルネスは城においては無血開城 騎士は城を脱出し、街中に潜んだから残っているのは非戦闘民
よく太っていた厨房の長がやつれた顔をして! 涙に濡れて笑った顔を見たか!
ここは記憶とあまりに違うルネスの壮麗な城
(記憶と違う)
(とても違う)
形骸の冠
「エフラムを知りませんこと?」 修繕の進む王宮で、軽やかに進む人影がある。 若葉の色合いに純白の衣装、聖王女と自負するロストン王女、ラーチェルであった。
グラドとの戦争は帝都を落とし、ジャハナを解放し、そして今ルネスを解放したことで終ったように思えた。事実いずれかを変遷する度に兵役を順次解き、このルネスで一般兵のほとんどを通常軍務へと戻す決定がされている。 だがこの戦いがグラドとのもののみに終わらなかったことは上部関係者にとっては周知の事実であり、ここルネスにおいて聖石を確保した後、エフラムはロストンへのルートを模索していた。 他ならぬロストン王女であるラーチェルと、随従ドズラの意見を聞きながら、既にその道程は決定され今は迅速に準備が進められている。 隠遁しその身を潜めていたルネス騎士達を治安維持に残し、精鋭の編成が進められている。国民の大部分は帰還した王子、王女の更なる遠征の理由を知らずに居たが、グラドの残兵が未だ数多くあることと、何より頻繁に出現する魔物の存在が格好の名目となっていた。 ――まさか、再び魔王が復活しようとしているなどと言えるはずもない。 見事全てが解決した頃には公式見解を発表する必要があるだろうが、今は唯悪い噂。魔物たちの勢いを削ぐための遠征と言い聞かせている。 その遠征軍の中核を為すのは各国の王子王女達であり、兵卒に至るまで最前線に赴く彼らの姿を目にしている。ラーチェルもその一人であり、よって彼女の話しかけた兵もその姿を知っていた。
「これはラーチェル王女。このような姿で申し訳ありません」 「今は事情が事情ですもの、許してさしあげます。それよりエフラムの居場所を知りませんこと?」 「エフラム様は先程ゼト将軍を連れて城下に見舞いにお出になられました」 エフラムのやりそうなことだ、とラーチェルはひっそりと眉を顰めた。 普段は後ろなど振り返りもしないエフラムだが、意外とこうした民の感情が微妙な時は行動に出る。いつものように随従の二騎士を連れていないのも、ゼトが民の人気も篤い見目麗しい若将軍であるからだろう。 エイリークを連れないのは治安の不安定さを憂えるからで、再会したエイリークが強く成長したことに戸惑いながらも、妹は安全な場所においておきたい、と言う身勝手な感情からだ。まったく、あの男は女心というものを理解していない。 「そうですの。では帰ってまいりましたらわたくしが探していたとお伝えくださいな」 踵を返すラーチェル。あの薄情な男の代わりに自分がエイリークを励まさなくては。彼女は荒れ果てた王都に心を痛め沈み込んでいるのだ。
「エフラム様!」 「手を休めなくていい」 ゼトのみ連れて城下を歩くエフラム。碧の色合いのみならず、彼の姿はよく目立つ。 (以前はまだずっと幼げな方だったが) グラドへの戦争が彼を変えたのだろうか、王としてだけではなく、人間として何かが加わったかのようだった。こうしてただ歩いているだけでも、見過ごせないものを感じる。 ルネスの民もそれを感じているのだろう、ゼト一人しか連れていない行幸だというのにあちらこちらから視線を感じた。 ゼトは意識を引き締める。まだグラドの残党が潜んでいるとも限らないのだ。 気安い調子で短く声をかけていくエフラムに続きながら、ゼトはそんなことを考えていた。
「ラーチェル王女、少し構いませんか?」 エイリークの居室へと急ぐラーチェルに落ち着いた声がかかる。振り向くと甘い色合いの金色がまず目に入った。エフラムの随従の騎士であったと思う。 「何か御用ですの?」 「はい。エフラム様の行方をご存知で無いかと」 それはおかしな話だ。むしろ誰よりも把握していそうな人の一人であろうに。ラーチェルはそんなことを考えながら先ほど聞いた事を伝えた。するとフォルデは困ったように頭に手をやる。柔らかい髪質は、少しラーチェルのものと似ていた。 「急ぎの用でしたら、探してみればいかがですの」 「いえ……まあ、後でいい話ではないんですけどね」 ちらり、とラーチェルを見上げるような視線を送ると(勿論フォルデの方がよほど背が高いが)冗談めかして囁いた。 「父王の遺体の件でして」 ……ラーチェルは眉を顰めた。エフラムの父親であるファードの遺体は長く晒されていたと聞いている。王墓に埋葬を許されなかった彼の王の遺体は、心あるものによって密やかに回収され棺に納められていたが、その遺体には頭部が存在しなかった。
聖石を手にし王宮へと戻ってきた双子は寄せられた棺に駆け寄り、そしてそれに絶句した。せめてもの防腐処理はされてはいたが、隠し切れない腐敗臭に溶けた肉。 心優しいエイリークはエフラムの腕を掻き抱き足を震えさせ、あの気丈なエフラムとて唇を戦慄かせた。 これが、と呟く声。 (これが、祖国奪回を先送りした報いか……父上) それでもしっかりした足取りで棺に近づき、遺体を崩さないようにそっと腕に触れる様。細くなった身体にも独特の懐かしみを捉え、エフラムは一つ息を吐く。 「……簡易な埋葬を整えろ。国葬は全てが終ってからだ」 それと。
父上の御印を、探してくれ、と。
ラーチェルの性根ではとても信じられないことではあるけれど、理性では彼女も納得している。まずルネスを取り戻したいなどという甘えた考えでは、とてもグラドは落とせなかっただろう。 国境付近の兵はほとんどが惨殺され、主要軍も前線を維持するべく出向いたエフラムと共に消えた。 文官がいくら残っていたとしても、彼らに軍事はできないし、民は魔物の出没や山賊の横行によって自らを守るのが精一杯。ルネスを取り戻したとしても後手に回り、グラド本国からは幾度と無く増援が送られていただろう。 だとすればルネス駐屯軍をそのままに本国を攻め落とし、有効な交渉を持ちかけたほうが一番早い。今でもエフラムはその選択を後悔などしていない。 けれどもその時間が父の遺体を惨いものへと変え、自国の民が嘆きに苦しんだのもまた事実であり、それをエフラムは忘れてはいけない。 戦争の直接の被害をどんなに減らせたとしても、その災禍が残したものを阻めなければ同じだ。 だからこそエフラムは。
「それで、見つかりましたの?」 「いえ……残念ながら」 ファードの首が晒されていたというのは確かな話だが、その首がいつのまにか無くなってしまっていた事については誰からも情報が得られない。 「逆に争奪された宝物の類は無事に見つかったりして……良いのか悪いのか、というところですね」 「そういえば、王冠も喪失したとお聞きしましたけれど」 「ええ、よくご存知で。……それも、見つからないままですね」
「エフラムさま」 差し出されたのはルネスで多く見られる野花であった。周囲にいた大人たちが慌ててそれを止めようとする。差し出してきたのは痩せた少女で、外見はミルラよりも幼く思えた。 平和の際のルネスではどこにだって見ることの出来た花だろう。差し出された花はくたれていて誰かに差し出す姿でもない。 だがエフラムはそっと腰を折り差し出された花を受け取った。 戦火に荒れた城下町において、花は希少なものだった。 「ああ、花だな」 伺うように見上げる少女に笑って見せると、ほころぶように少女の顔に笑顔が浮かぶ。こんな笑顔を見るために自分は。 短いやり取りに勢いづいて、周囲の子供らが一斉に寄ってきた。親であろう大人たちはこら、と怒って声をかけるがエフラムがちっとも構いやしないので次第に笑い顔に変わっていく。ゼトが横で溜息をついた。 子供たちが次々と差し出してくるのは本当に他愛もないものばかりだ。 綺麗な石。四つ葉のクローバー。蝉の抜け殻。どこで拾ったか色硝子の欠片。 これは宝物だ、とエフラムは思った。他人に付けられる価値など重要ではなく、己がそこに感じる煌きだけが全てなのだ。王都に戻って以来尋ねていない自分の部屋にも、そういった宝物がまだ引き出しには眠っているのだろうか。傷ついた王都で新たに受け取った小さな宝物たちも、それの仲間入りをしても構わないだろうか。 「エフラムさま……」 それは、最後に差し出された宝物だった。
「ラーチェル」 ノックの後に入った部屋で待っていたのは、窓際で外を眺めていたエイリークだった。顔色はまだ大分蒼白ではあったが気丈な色が戻ってきている。立ち上がって迎える様子を制して、傍らの椅子に腰掛けた。 「調子はどうですの?」 「心配をおかけしてすみません。先ほどもターナが来てくれていまして……もう平気です。ロストンへ向かう準備を急がないといけませんね」 見ると小さなテーブルの上にはお茶会が広がっていた痕跡がある。 「そんなこと、他の皆様に任せて置けばいいのですわ。言わずとも進めているようでしてよ」 「自分の剣だけは自分で準備しろ、と兄上にも言われていますから」 「あの男も口だけは一人前ですのね」 ラーチェルの物言いにエイリークが相好を崩す。だがそれも一瞬で、再び窓の外の光景へと視線を移した。正確にはその眼下に広がるルネスへと。 「エイリーク……」 「私は、自分を責めているわけではありません」 ひやりと冷たい波璃の硝子。こんなものが残っていても、嬉しいわけじゃないのに。 「あの時私には力がなく、平和を説く声も虚しい。……それは事実です」 エイリークの表情は見えなかった。 「過ぎ去った過去を悔やんでも仕方が無い。これから立ちはだかる絶望を乗り越えるために、私は少し、強くならなくてはいけない……兄上に聞いたならきっとそういうでしょう」
それでも残像の中の記憶はどうしようもなく優しく、エイリークの心を柔らかく裂いていく。
「……父、上……っ」 恐らく彼女は泣いていない。 ラーチェルがエイリークの前で決して涙を流さなかったように、エイリークもラーチェルの前で涙は流さない。大切な友情は依存を生じさせるものじゃない。 「……すみません、ラーチェル。ターナは気にするだろうから……言えなくて」 フレリア王女は優しい娘だから、そう気をかけるエイリークだってずっと優しい。 「わたくしとエイリークは友達ですわ。そうではなくて?」 「……はい。そうですね」 王位継承者ゆえにか、僅かばかり心を飾ることのできるラーチェルは力強い微笑みを浮かべてそう言う。 その強さがエイリークには羨ましくもあり、どこか切なさも感じさせるところだった。
「王冠も失われてしまって……兄上が戴冠なさる際は別の物を作る必要があるでしょうね」 「どういったものだったんですの?もちろん我がロストン聖教国の神々しくも荘厳な宝冠には適わないでしょうけれども」 「ふふ。……そうですね、代々国王の肖像画には宝冠を戴いたものが描かれているはずですよ」 幸いにも代々の肖像はあまりに大きな絵であるから盗まれてはいなかったはずだ。 「兄上が次は被るんですね、と私が言うと、兄上はいつも”こんなものいらない……俺は傭兵になるんだ”っておっしゃって……」 「全く、今も昔も変わりありませんのね!」 エイリークは楽しげに笑うとでも、と続けた。 「兄上はとてもお変わりになりました。昔と違って本当に無茶だ、と思うことは言わないし、臣下をお思いになるところもよく見ます。必要に駆られてなのでしょうけど、不満もなく長い書類にも目を通しています。きっと……父上が御覧になればお喜びになったでしょう」 それが誇らしくもあり、寂しくもある。
「兄上が王になると決めたその時には、あの王冠はないなんて……」
エイリークは静かに瞳を伏せた。
「……エフラム?」 その男を見かけたのは夕刻だった。 人通りの少ない城内の一角。上の階が大きなバルコニーとなっていてよく式典に使われるが、一転階下の小さなバルコニーはあまり使われることが無い。 ルネス城は彼の庭なのだろう。このように人通りの少ない場所を網羅している。 碧の髪と碧の瞳。兵装を解かないルネス王子はぼんやりと城下を眺めているようだ。その手元には数々のガラクタが転がっている。キラキラした石や虫の抜け殻、カラカラに乾いた真っ赤な落ち葉にどんぐりを連ねた首飾り。 そして、草で編んだ冠だった。 「君か」 ラーチェルの視線に気づいて手元に視線を下ろすと、エフラムは少し笑った。 「城下で貰った」 余計なことも大切なことも、多くを語ることをしないエフラムはそれきり続きを話そうとしない。再び動いた視線を追うように、ラーチェルも眼下に広がるルネスへと視線を向ける。 疲弊し、傷ついた国だった。
「王冠は……探しますの?」 ラーチェルの問いに、エフラムは城下から視線を逸らさないまま小さく首を振る。 「大切なものは、それじゃないんだ」 全くもって、言葉の上手くない男だ、と思った。ラーチェルはエフラムに近寄るとその膝の上の草冠を奪ってしまう。 「おい?」 ラーチェルは厳かに草冠に口付けを落とす。
「貴方は他の何より、王ですのね」
静かに頭上に冠が載せられる。エフラムは自分からでは見えなくなった冠の方へ視線を向けると、僅かに表情を引き締める。そしてまたルネスの国へと視線を送る。 ラーチェルもまた、ルネスを見た。 誰もいない冷たい石壁。人々が小さく復興へと進むさま。子供の捧げた贈り物。国を見つめる王の姿。
それが今の、ルネスの姿。 こんなにも寂しいのにこの国は美しくてならない。
ラーチェルはエフラムを見つめていた。 その頭上に載せられた冠は、いかなる絢爛な宝冠よりも、王冠らしく見えたのだ。
|