「―― あ に う え 」 澄んだ声に振り返った先に、ガーネットの色
彼を始めて見た時に、血というものを実感した 大地の色を宿す髪も 瞳をそと合わせてくるところも
あにうえと、呼ぶ響きも不思議と同じ
育ちはまるで違うのに確かに同じで これがトラキアの王となるひと
天の采配
はらり、と落葉する。 葉が落ちる、などどのような前触れかのように思っていた。緑の一切が無くなってしまうなどまさに世界の終わりのような気さえする。 広葉樹の葉が落ちる様にぼんやりとアリオーンはそのように思った。そうして、それでもこの地は故郷よりずっと色彩鮮やかであることを実感した。 彼の育った時代は傭兵軍を必要としなかった時代である。暮らしに困った民は個々に戦力を貸していたが勿論王子である己が単独で傭兵をするわけにもいかない。 よって、アリオーンは生粋のトラキア育ちであった。 婚約者リノアンを訪れる際はいつも春。葉が落ちる時に来訪したことはない。 広葉樹の生えぬ厳しい気候。アリオーンの知る緑はどこかくすんだもので、その色が一年の色彩の全てであった。
ああ、これが秋というものか。 秋が冬の準備だけではないと、アリオーンは始めて知った。 トラキアの秋は実りの季節ではない。冬に入る前にと多発する領地争いや莫大な徴税率への反抗の鎮圧。村からは男達の姿が消える、それが秋だった。 冬に迎え物資を溜め込み、豊かな北さえ奪えれば、とそればかり考える。
アリオーンは、ずっとそれではいけないのではないかと思ってきた。自国を富ませる努力なしに、他国を制することなどできるのだろうかと。 けれどもそれが口には出せない。アルテナはまだ子供だから、そう言いながらも疑惑をつと声に出せる彼女を羨んではいなかったか。 その違いがトラキアの者か否かだったかは今でもわからないまま。 少なくとも、トラキアの民は誰一人戦争を唱え武力を強める父に異論を唱えはしなかった。 ならば、己はやはり間違っていたのか。父がいない今となってはそれを確かめることもできない。
アリオーンは何度目かになる嘆息をした。 彼は対処を待っていた。ユリウスに加担したのは同盟軍となることでセリスは良しとした、後はリーフの判断に任されていたのである。
「安心してください兄上、リーフは良い取り計らいをすると思います」
そのリーフは自軍の撤退準備に忙しいようでまだアリオーンを訪ねては来ない。 リーフの仇は己が父であり、その父を殺めたのはやはりリーフ。 これは、どういう関係と呼ぶのだろう、ともう一枚落ちた葉を眺めながら思う。
「……あにうえ?」 聞き慣れないが、慣れた空気。アルテナだと思ってアリオーンは視線を向けた。 そうして、あ、と気がつく。声は妹のものではなかったし、まして女性のものですらない。 白い洋装に身を包んだ少年がそこにいた。驚いたような瞳が瞬く間に穏やかに滲む。 「あにうえ、こんなところにお出ででしたか」 アリオーンは違和感を感じない己にこそまず戸惑った。こんな扱いは遠慮するべきだ。少なくとも敗戦国の王子とそれを飲み込み統一を果たそうとしている王子の間に交わされる言葉ではない。 彼は――リーフは笑って言う。 「トラキアに帰還するのは明日です。忙しい出立となりますが、あにうえもご準備なさってくださいね!」 当たり前のように、そう告げた。
アリオーンはどこか空虚な思いを感じた。目の前でくるくると表情を変じているこのこども。確か17を数えたはずだが記憶の己より幼い気がする。 そうだ、と何か言っている。 今度、槍の相手をしてくださいますか。 姉上が、あにうえの槍術は素晴らしいと言っておりました。私と勝負をしてください―― 「何故」 と、アリオーンは搾り出すように告げた。 おかしい。こんなことは知った直後にさえ思いもよらぬことだった。 当然の帰結だと思った。父は目の前の時代に抗っていた。けれどもトラキアの民として、最後までそれに準じようと思った……。 何故、今になってこんな衝動に駆られる。
「リーフ王子、何故私にそうして笑いかける」 少年は笑顔を変じた。不思議そうな顔になる。 「私は王子の仇の息子。王子は私の父の仇」 アリオーンはそう言いながらも実感のない空っぽな言葉だ、と思う。死に場所を探していたのに生き残ってしまった、ユリウスに救われた時と似ている。 「稽古と称し、王子の首をとるかもしれんぞ」 リーフは分かっていないのか、やはり不思議そうな顔だった。 「あにうえは、そんなことはしません」 瞬間、呆然とする。 リーフはまた笑った。無邪気な笑みだと思う。 「後日、出立の時にお会いしましょう。トラキアへの道のりは長いですから」
リーフはぺこりと会釈して忙しく立ち消えた。当然だ、自分ではない。 王となる従兄弟に解放に向かう親友。彼らと磐石の体勢を作るべく、いつも軍師を連れてあちらこちらと駆け回っているのを知っている。 自分はこうして、居場所を見つけられずに季節を眺めている。
トラキアに、帰る?
どこにいけばいいのだろう。 生き残ってしまったことに、先を見ていないことに気がついた。 率直に次を口に出せる王子への、これは嫉視だ。
「やはり、問題は南北の格差でしょうな」 リーフの白馬にやや遅れるような進度で馬を進めながら、アウグストが告げた。歩兵を率いるハンニバルが先行隊なので、どうしても動きは遅々として遅い。その分アレスの元に駆けつけるのが遅くなるが、まあそれで文句を言ってくる者でもなく、アグストリアの出窓はノディオンだ。そんなに心配はしていない。 リーフはフィアナを回想した。フィアナは土地的には南トラキアの領内であった。帝国に北が占拠された際帝国領となったが元来山の南の土地。土地は富んでいるわけではなく、日々の農作も苦労を伴うものだった。 ダグダは農業に見切りをつけて山賊となったと言う。それだけ、トラキアの土地は人々を失望させていた。
「トラキアに入ったとき、緑の喪失に驚いた。土の色もレンスターのものとは違う。どうしてあんなにも違いがあるんだ?」 アウグストが後方を見やった。 「お話しろ」 時間はいくらあっても足りない。常にリーフの後方に控えていたカリオンは簡易な礼をしてから告げた。 ミレトスに入るところで小隊を率いて待機していた彼はそこから同行している。 「南北の境には山脈があります。トラキア半島に到来する風は夏は南から、冬は北から、と変化しますが、風が運んでくる雲はその山脈で止まり、山の向こうまでは運ばれません」 カリオンはハンニバルの教え子だった。その際学び舎はトラキア、故郷との風土の違いに独自に調べたことがあるらしい。 「夏の潮風は木を枯らし、冬にはイザークから運ばれる湿気を含んだ雲も全て北で雪となって降り落ちます。南に残るは乾燥した冷たい風だけ」 「また、山脈から流れる川のほとんどは北側に流れ落ちます。南に向かうものもないわけではありませんが……」 カリオンはそこで口上を切った。 「長い寒風で土地は痩せており、度々洪水を起こすため築いた農地も荒されてしまうのです。しかも、固い岩盤のためにその水にはほとんど栄養が無い……」
リーフは吟味するように頷くと吐息と共に悩んだ様子であった。 「農作業をするには至難。土地改革をするにもその間の食糧に困る」 見守るようなアウグスト。 「土地改革には、周囲の助けが必要だな。十年後を考えれば改革は必須。だが十年飢えさせれば耐えられないだろう」 「北には豊富な物資があります」 「では、それを南に提供すればよいか?」 「北の貴族が、ずっとそれをさせなかったのです」 カリオンはそれに唇をかみ締めた様子だった。リーフはそんなカリオンの姿を目に納めながら会話を続ける。 「どうして、北はそれをしないんだ?」 「南北は争いを続けておりました。敵に塩を送るなど・・・といったところでしょう」 「いや、数十年のことではなく」 アウグストは訝しげな目線を向けた。 「ノヴァとダインの時代、南北の仲が良かった時代に、それは行われなかったのだろうか」 は、としたような顔つきであった。カリオンなどは目を丸くしている。アウグストは瞬時にしたり、といった色をのせて言葉を続けた。 「南に物資がないからですな」 そういうことだ。 「片方からの援助では、人は向上を忘れて甘んじます。南に食糧援助等と等価値の産業を発達させ、国中に巡らせるのがよろしいでしょう」 リーフは頷きながら馬を駆る。
「私は、南など、と吐き捨てる臣の言葉を子供の頃に覚えている」 カリオンがそれは、と問おうとしたが、リーフは瞳でそれを遮った。 「また、北など、と苦渋の声をあげた老臣を、私は斬った」 臣下の二人は黙った。会話に参加していないフィンの姿は先方の騎兵を駆っており、リーフはその姿に瞳を細めた。 「互いが対等であり、同じトラキアに生きる民である。それは上から教え込まれるものではない。人々の意識から変えていかねばならないものだろう」 「また、上に立つ者の態度もですな」 アウグストにはかなわないな、とリーフが笑う。 「南のことをもっと知りたい。カリオン、お前も含めて風土に通じているものを何人か呼んでくれないか」 かなわないのはこちらだ、と臣下は思った。
「あ」 視界の先に差す影にリーフが天上を振り仰いだ。 「姉上、あにうえ」 アリオーン下の飛竜を伴い、羽ばたく先にグングニルとゲイボルクが並んで光を燈す。 リーフの呼びかけに、双者が小さく手を上げるのが、アウグストには僅かに見えた。
「風土に通じているというと、やはりアリオーン殿かと思われます」 カリオンの言葉にリーフは空に向けていた瞳を戻す。 「アリオーン殿はかねてより博士について国土について学んでいたと聞きますから」 「そうか」 リーフは再び空を見上げた。白く燃える太陽が眩しい。 「凄いな、あにうえは」
「ああ……リーフですよ」 アルテナの言葉がなくとも一目でそれはわかった。馬の中にポツンと浮かぶ白馬と白銀の鎧。 目立つものだ、と思う。兵の士気をあげるためのものだろう。それとも敵の標的となっても勝ち残ることができる自信か。 リーフが空を見上げて手を振ってくる。微笑んで返すアルテナに倣った。
空を行く竜は大地の様に影響されない。戦争によって踏み荒らされていた街路は馬の足を取る。天空から少年を見下ろして、アリオーンは自問した。 自分は、こうしてトラキアに帰還しようとしている。 祖国の者はどう思うだろうか、ユリウスの強さに魅せられたあの時期は、国のことは本当に――何も考えていなかった。生き延びるとは思えなかったからだ。 滅びた国だ。トラキアの王子が帰還して、一体あの半島に何を引き起こすのだろう。リーフはどうして自分を連れて行こうというのか。 禅譲やら公開処刑やらを考えていないのだけは確かだった。あの笑顔の中にそんな汚濁を伺おうものなら自分のほうがどうかしている。
「しかし、本当に目立つな」 ついて出た言葉にアルテナが不思議そうな瞳を向けた。ああ、と合点いったように苦笑する。 「リーフの装束についてのことですね」 あれでは地上からでも弓のよい的だろう。国主たるものは傷を受けてはならないというのに。 「私もそう言ったのです。また周囲の者がそれを指摘しないのも信じられなくて……」 ねえ兄上、とアルテナは続けた。苦笑が深い。
「あれは、誰に殺されているのかを知らせるためだそうです」
アルテナの瞳が歪む。 「率いているのがリーフであること、兵の意思はリーフの意思であること、兵卒に至るまでその咎は、全てリーフが背負うということ。……そういうことを、知らせるためだと」 遠い目になった。泣きそうだ、アルテナは。泣くことはないだろうが。 「リーフは言いませんでしたが」 視線を外して天上を見上げる。 「私がトラキアのために戦い……私が、為す術も無く戦いを見送り……私が、トラキアを愛しているということすら」
(私が南の王子であり、死ぬつもりで戦い、もしも叛旗を翻したとしても)
「きっとあの子は、己が背負う心積もりでいるのです」 臣下が、家族が、朋友が。信じた人がすることは、全て主君の彼の責任。
(死ぬ後まで彼は君臨するもの。それが当然だと言って笑うだろう)
「北には若い勢力がリーフに従い、南では死すまで忠孝を賭す者は皆死にました」 神器を握り締める妹の姿。 「これからトラキアは、急速に統一へと向かうでしょう。民は既にリーフの元に集おうとしている」 アルテナは見上げた顔をこちらへ向けた。頬は濡れていない。 「私は、トラキアの大地のために、トラキアの生きる民のために。……リーフのために、私を賭けます」
そう言って微笑む姿は、もはや幼い妹ではないと実感させるものだった。
(もしも叛旗を翻したとしたら?) その考えは愚考だった。彼は私に言ったはずだ。
(あにうえは、そんなことはしません)
なんてことだろう。誰があの信頼を裏切れるのか。 私は南の王子、トラキアの民。
(だから本当、ついていくしかできない)
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