光の少女は彼女を憐れんだ (己が幸せであると知っていたからだ) 闇の少女は彼女を憐れんだ (幸せが薄氷であると気づいていたからだ)
それでも二人は、血で繋がれた肉親へと剣を向ける
むこうがわのふたり
「あの人が、――――の?」 拙い言葉で問われた言葉に既に老齢である男は頷いた。殊更鮮やかに闇の力を継いだ娘だった。 ゆるやかに流れる灰銀の髪は血族の証であり、瞳の翠は彼女の母親から継いだものだった。 男の息子が恋に落ちた女だ。後に娘の母親となった彼女はブラギに仕えるシスターであった。……男はそれを知ったとき、息子を裏切り者と罵り怒りに身を燃やしたものだ。 息子もその妻も今はいない。両親が失われてより塞ぎこんだ孫を連れてマンフロイはある幸せな家族像を見せにやってきていた。 程なく瓦解する幸福像。 グランベル皇帝家族を眺めながら、幼いサラは醒めた眼差しで呟いた。 「可哀想に」
両親と共にさざめき笑っていたユリアはふと感じた魔力の動きに目の端を動かした。 銀灰色。 自分と、母と似た髪の色をした少女。 浮かんだ疑念は父の少女を呼ぶ声に、直ぐに溶けて消えた。
稀代の法治国家グランベル帝国。ユグドラシル大陸の大半を席巻したこの帝国は、アルヴィス皇帝が王位を継いでよりその名を歴史に現した。その国政は一言で言い表せば厳正。多分に厳しくはあったものの、不正を許さぬ在り様を、当初は誰もが気高く感じていた。 しかし、確実に影を孕んでいた。 即位前次々と斃れた公王、公子。 説明無く置かれた大司教の座とロプトの国教化。 制圧した後荒廃に任せている諸外国。 統治が長く続いていけば、それは時間が解決したことだろう、と歴史家は語る。改革に必要とされるのは30年の月日だとは誰の言った言葉だろうか。 始めに十年が過ぎた。 直ぐ傍まで闇が迫ってきていた。
兄様は、最近ちょっとおかしい。 ユリアがそう思い始めたのは最近のことだった。 ユリアの双子の兄であるユリウスは、髪の色、瞳の色こそ父アルヴィスに瓜二つであったけれど、その性格は父のものとはまるで違っていた。 苛烈なものを好まぬ穏やかな性根。よもすれば引っ込み思案と呼べる消極さ。 だが父は失くした弟によく似てると評し、兄を大層愛していた。同じ過ちを成すのが恐ろしいとばかりに必要以上に甘くならないようにと自制していたけども。 甘やかされぬ代わりにユリウスは勤勉であり、己を磨くことを惜しまなかった。 それで他を省みないかといえばそうではなく、ユリアが花を手向けにきた時、ディアドラがお茶に誘いに来たとき、柔らかく微笑んでそれを迎えた。
兄様は、最近ちょっとおかしい。
とても頭のいいイシュタルと、苦もなく論舌を交わすようになった。 勉強をしなくなった。まるで必要ないみたいに。 ユリアと遊んでくれなくなった。 大司教と、よく一緒にいる光景を見るようになった。
どうしてだろう、とユリアはそれに対する答えを知らなかった。
母様は、最近ちょっとおかしい。 ユリアがそう思い始めたのは最近のことだった。 ユリアの母親であるディアドラは、ユリアと瓜二つの髪の色に瞳の色。ふわふわの髪を持っていたけれども二人はよく似ていた。 幻想の中に生きているような人で、普段は優しい母の顔だけれど時たまこどものような夢想した顔をする。 最近、それが顕著になった。 ディアドラはもうじき至福の瞬間が来るのだ、とでもいいたげに幸せな顔をしているし、今にも羽根が生えそうな面持ちだ。その表情にユリアは不安を掻き立てられる。母が幸せそうにしていれば嬉しいはずなのに、最近はまるで離れていってしまうかのような焦燥を掻き立てられた。
母様は、最近ちょっとおかしい。
日付を一日一日数えている。確かにもう直ぐユリアとユリウスの誕生日だけれど。 あやふやな読み書きで手記をしたためている。 ユリアと、いつも遊んでくれるようになった。 ひいお祖父様の肖像画によく挨拶にいくようになった。
どうしてだろう、とユリアはそれに対する答えを知らなかった。
父様は、最近ちょっとおかしい。 ユリアがそう思い始めたのは数日前のことだった。 ユリアの父親であるアルヴィスは正しく厳しい皇帝で、ユリアにとってはただただ優しい男だった。 家族に愛を注ぐ一方、立派に帝国を治める英雄だ。 父以上に、素晴らしい者などいるわけがない、と思っている。 その父は最近塞ぎこんでいて、庭園からよく視線を外す。正確には、ディアドラから視線を外す。 まるで見てはいられないと言わんばかりに。
父様は、最近ちょっとおかしい。
母様を見ていられない。でも母様の動向は気にする。 兄様を見ていられない。古い日記を手にして溜息をついている。 ユリアを見ていられない。たまに、悪夢に魘されている。 ひいお祖父様の肖像画を見つめて、唇を噛み締めているのを見た。
どうしてだろう、とユリアはそれに対する答えを知らなかった。
「ねぇ。どうしてだと思う?」 小さな少女は、己よりもさらに幼い童女に話しかけた。目の前にいるのは童女であったが、透明な翠の瞳は全てを見通しそうに思えた。 「どうしてあたしに聞くの」 童女は抑揚なくそう答えただけだった。 「だって」 少女は不満げに足をばたつかせる。この童女は意地悪だ。聞いたら答えてくれればいいのに。 「ねえ、教えて」 傲慢な物言いに童女は眉を顰めた。この少女と自分とは違う、というのを痛烈に感じたのであった。無防備な高慢さは童女の気を苛立たせたが、童女は既にそれに対し口を噤むことを覚えてしまっていた。 「……知らないわ」 残酷に言い捨てることが童女の脳裏をよぎったが、すぐに童女はその選択を廃棄した。言ったところで少女は信じないだろうし、信じたとしても変わるわけではないのだ。 未来の一端を知っているということが童女に心の余裕を持たせ、またそれを押し黙る聖者の欠片を匂わせた。
「なあんだ」
少女は関心を失ったかのように会話を捨てた。無造作に傍らの花を手折る。整然と整えられていた庭園の花に不調和が生じる。 「花冠を作りましょうよ」 童女は幸せであった時間を思い出されて肩を落とした。少女は、それに気を払わず他の花も手折っていく。 やがて作り始められる冠に、童女は視線を落として問うた。 「どうして、あたしを呼び止めたの」 冠を作る手を止めて、少女は首を傾げながら考えた。 「そうね」 童女の頬に口付けんばかりに顔を寄せて、思案する。 「兄様が、遊んでくれないからだわ」
童女は瞳を凍らせた。少女は言葉にしなくとも、この典雅なる王宮に漂う気配に既に気がついているのだ。 兄皇子の背負う闇に。両親に流れる黒い血に。そして、童女に継がれる暗い魔力に。 未だ現れてはいないナーガの聖痕をその額に見て、サラは吐息を洩らした。
(ああ。可哀想なお姫様)
サラは白昼夢を見る。 銀色の少女と紅い少年。
「ほら、花冠を作りましょうよ」
サラとユリアが幼い時に面した時は、その一日だけである。
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