水底の花
anneさま





 竜の流した涙がその泉になったのだと、人々は信じている。
 つめたい心とつめたい身体の彼女が何故人間の男と恋に落ちたのか、ふたりの出会いを知る人のすべては鬼籍に入り、ふたりの物語を見つめていた竜は何も語らない。だから、彼らの間に生まれた娘が自分の父母について訊ねた時、その疑問に答えるのは、大賢者と呼ばれる老人の役割だった。
 ものごころがつく以前から、未来を読む力に目覚めていた少女は、老いた竜の庇護の下、守り手にかしずかれ、里の中で何不自由なく暮らしていた。ただ、不自由がない代わりに自由もない、そんなソフィーヤを見かねた大賢者は、彼女を外の世界へ連れ出した。
 人でありながら、その時すでに千年の歳月を生きていた老人は、ソフィーヤを連れて各地に埋もれる遺跡を訪ね歩き、世界の成り立ちについて、かつてこの大陸に吹き荒れた戦の嵐について、そして彼女の両親について語った。
 お前の父親は愛する女を得て、彼女との間に娘をもうけ、幸福な生をまっとうした。しかし残された母親は男の不在に耐えられなかった。生きる意欲を失い、涙を流し続ける毎日だった。人はそれほどまでに絶望する女にかける言葉はなく、竜は愛とか悲しみという感情が彼女に存在すること自体に驚き、結局、彼女を救う術は見つからないまま、ある日、その姿は忽然と消えてしまった。
 何処へ? さあ、それは誰も知らないのだ。里の者が総出で彼女の痕跡をたどったところ、行き着いた先には青い泉が湧いていた。空の一部をそのまま白い砂に埋め込んでしまったような、彼女の瞳と同じ色の水面だけが輝いていた。





 ソフィーヤは風にたなびく髪を押さえた。見つめる先には砂漠の中にそこだけ、まばゆいばかりの青が煌めいている。誘われるまま歩を進めて水辺に屈む。水面が覗き込む彼女をもうひとりの自分として映し出す。
 竜の巫女として尊ばれるソフィーヤの予知能力は、驚くほど優秀なものだった。それは彼女の心に一点の曇りも、何の迷いもないことに起因する。その力は竜族すべてが所有するものではなく、人間の血が混じったことによる変異だったから、純血を尊ぶ一族の長老などはやや渋い顔をしたものの、彼女は常に正しく予言した。
 里の平穏を保つのにかかせない存在であった大賢者がいなくなると、砂漠に吹く風が変わった。里は以前と変わらず強い結界によって外からは完全に遮断されているといっても、世界にうごめく悪意が日々増長していくのを、ソフィーヤだけではなく、竜の血を引く者全てが感じ取っていた。
 いつか、そう遠くない将来、必ず何かが起こる。あの戦争のような、いや、或いはそれ以上の──。

 災厄を事前に知るには、ソフィーヤの力が必要とされた。だが、閉ざされた空間の中で人や竜から向けられる粘っこい視線はどうにも耐え切れず、彼女は隙を見ては砂漠に逃れ、亡き大賢者が教えてくれた青い泉に足を向けた。
 四六時中強い日差しに晒されていても、水は冷たく、泉の周囲もひんやりとした空気に包まれている。てのひらですくって喉を潤し、靴を脱いで足を浸す。
 身体から熱が引き、その心地よさに目を閉じる。ほっと一息ついて瞼を開けると、空は本来の青ではなく、やや紗がかかったような薄い水色をしていた。
 乾いた砂漠の中の切り離された別世界は、とても静かだ。
 ソフィーヤにとってここは居心地のいい場所だった。これほど豊かな水をたたえているというのに、どういう訳か、砂漠に住む生き物も、縦断する隊商も、この泉には寄りつかない。せっかくの水を利用しようと、里まで地下水路を引いてみても、流れは途中で止まってしまい、計画した長老を落胆させた。
 お前ならこの泉を使いこなせるだろう。ソフィーヤが最後に大賢者と言葉を交わした時、彼はそう言った。予言によって自らの最期を悟った老人は、いくつかの魔法を彼女に授けた。長年愛用していた魔導書を手渡し、自分の運命を切り開くために、これを使いなさい──とも。
 多くの知識を学んだ賢者は尊敬すべき人物であるが、ソフィーヤは首を傾げる。彼女の予言は必ず起こりうる未来で、どうあがいても抗っても、神に手繰られる運命の糸から逃れることは出来ない。
 里に住まう者たちも、巫女の予言が下ったからといって、行動を起こすわけではなかった。吹き荒れる砂嵐に耐えると同様、それが過ぎ去るのを待つだけ。あらかじめ知っていれば心に余裕が出来る、我々はそれだけが欲しいのだと、長老も言っている。
 運命とは受け入れるもの。定めに逆らっても無駄だと大賢者も知っていたはずなのに、何故あんなことを言ったのか、ソフィーヤには分からない。──運命を、切り開くなどと。

 頭の中から老人の遺言を振り払おうとしても、それはすっかり固着してしまっている。
 疑問はいつまでも解消されず、心が乱れる。
 東の方からひたひたと近づいてくる影は、もう既に彼女の髪を絡めとるほどの距離にあるのに、近頃は未来がまるで見えない。
 ため息が漏れる。
 仮に予知が出来なくなっても、長老も里の人々も、彼女を責めたりはしないだろう。とはいえ、竜でもなく人でもない自分が、未来視も出来なくなってしまったとしたら、あとに何が残るのか。
 里の中でうつろな日々を過ごすだけの、それだけの自分。
 ソフィーヤは片足で水面を蹴った。
 鏡が砕け、映し出す世界が歪んだのはほんの僅か。波紋はすぐに収まり、また元のようにありのままの彼女となる。
 特にこれといった感慨もなく、自分の顔を眺める。もやがかかった重い頭を横に振る。緩やかに弧を描いた髪が白い頬を打つ。
 すると、視界の隅に何かが光った。

 静かな水面は中心に向かってより一層濃い色となり、一見すると、それだけ水位が深そうに思える。その冴え冴えとした青の中に、空からこぼれ落ちた星のような、きらきらと輝く何かがある。
 敵意などは感じられず、むしろその逆。とても近しく、あたたかな気配を感じる。ソフィーヤはやや戸惑いながらも立ち上がり、泉の中へ入っていった。
 足の裏は乾いた砂の感触そのまま、服の裾は水を吸っているのに不思議と重くならない。彼女の身体は足元からだんだん青に変わり、泉の中心に進んだ頃には、腰のあたりまで達していた。
 近くで見ると、その光はひとつの星ではなく、いくつもの異なった色合いによって構成されている。ひときわ目立つ赤い輝き、その隣には蒼い輝き、金色の輝きは数が多く、橙色の輝きはその場にじっとせずくるくる回っている。

 ──金平糖を散りばめたみたい……。

 ソフィーヤは、何代か前の守り手からもらった菓子を思い出した。ほおばった途端、口の中いっぱいに広がった甘さは初めての味だった。夢中になって食べていると、彼女の傍らでそのひとは優しく微笑んでいた。
 すっかり忘れてしまっていた、懐かしい思い出がよみがえる。顔も名前も思い出せないけど、いつも側にいてくれて、ソフィーヤの手を取り、頭を撫で、時には背中におぶってくれた。
 まっすぐな長い髪のひとだった。いい香りがした。ほっそりとした白い指に、銀の指輪をしていた。
 でも、現在の守り手のように、武器を携帯している姿を見たことはない。戦の匂いがしないひとだった。
 ──あれは……母だったのだろうか。
 ふと、そんな考えが浮かんだ。
 涙だけを残して、消えてしまった氷の竜。
 水面に広がる髪を手ですくう。手触りで記憶の糸を辿る。──確かに、同じような感触だった。
 呼びかけてみる。
「お母さん……?」
 静寂を打ち破る言の葉の振動が、青い世界に揺らめきを起こした。ソフィーヤのまわりからさざめきが走り、岸にぶつかって反転し、大きな波が押し寄せる。
 水の勢いに押されたソフィーヤの身体は、水中深くに沈んだ。長い髪がゆったりとした軌跡を描き、彼女の後に従う。無数の白い泡に包まれながら、もうすでに遥か遠くになってしまった水面を仰ぎ見ると、先ほどと何ら変わらず、綺羅星たちは瞬いている。
 彼らの向こうには歪んでしまった太陽。それを尻目に、星たちは赤い輝きを中心として一つとなり、自らが光を放ち、新たな太陽となった。
 深みへ落ちていくソフィーヤの元へもその光は届いた。彼女を貫いて青の闇を明るく照らし、今まで光が届かなかった深淵に、一筋の確かな道を作る。
 闇が払われた泉の水底は、地上よりもさらに白い砂で覆われていた。そこには弱々しく瞬く緑の星がひとつ落ちていた。まるで涙を一粒だけ流したように、どこか悲しげな光をたたえている。
 天上にあれば道標となるべき力をもっているのに、仲間たちからはぐれてしまった今は、行き先を見失って震える子供のよう。
 ソフィーヤは腕を伸ばした。しかし、触れていいのかどうか迷う。星とは地上に生きる者の運命そのものを表す。巫女である彼女の役割は、星の行く末を知り、それをただ語るのみ。介入してはいけない。

 ──でも、そんなところにいては駄目。

 寄る辺ない不安や焦燥が伝わってくる。どこの誰かも分からないのに、ソフィーヤの胸には守ってあげたいという圧倒的な感情が芽生え、その想いのままに、半分砂に埋もれている星をてのひらで包む。すると、ちくりと鋭い痛みが走った。おそるおそるてのひらを開くと、緑の星は激しく発光している。そこからは他者を寄せ付けない頑なさを感じる。
 心を許してくれなくても、放っておくことなど出来はしない。痛みをこらえ、星をしっかりと胸に抱き、もう大丈夫──と語りかける。
 もう、大丈夫。
 真摯な願いが通じたのだろうか。その言葉によってぴりぴりとした刺激は収まった。
 思わず笑みがこぼれる。
 ソフィーヤの笑顔を彩るように、先ほどよりも一際強い光が水底を射す。目に見えない流れが彼女の頬を撫でていくのが分かる。
 背中を押されたソフィーヤは本来の姿に戻り、長い尾とひれを使って浮遊する。水中は彼女の領域ではないのに、竜の身体は制約を受けることなくしなやかに動き、息苦しさも感じない。
 ここへ導き、出会いを与え、そして守ってくれている母に、感謝を伝える。
 ──ありがとう。お母さん。
 そして、緑の星を仲間たちの元へ解き放つ。
 さらなる光を得た星たちはあるべき姿となり、青一色の世界を鮮やかな瑠璃色に変え、何処かへと消えた。
 彼らを見送った後、もう一度尾をくねらせると、歪んで見えていた風景が元に戻る。
 乾いた風が体表の水分を飛ばす。息吹を感じるほど近くにあった母の気配も感じられなくなった。
 白い砂漠は何事もなかったかのように沈黙している。
 以前とは少しだけ違って見える世界に、今は彼女ひとり。
 でも、これはほんの一時の別れ。だから悲しくはない。

 こうやって触れてしまったのだから、おそらく、あの星の持ち主と自分の運命はきっとどこかで交差する。それが何時、どのような形で訪れるのかは分からないけど、煌めく星たちとの出会いは必ず訪れる未来。
 暗い場所から再び明るい場所へ戻ったソフィーヤの目には、迫り来る闇の姿がぼんやりとだが、はっきり見えるようになっていた。
 それが彼女にとって、世界にとって、圧倒的な脅威であることは間違いない。
 けれど、怖くはない。不安も感じない。
 ソフィーヤには見える。
 その先にある、未来が──。





 彼は暗闇の中で目を覚ました。ごつごつとした感触が背中に当たる。当たり前のように手をついて身体を起こす。あたり一面は目を閉じている状態となんら変わらないほど暗かった。そして、その闇にすべてが吸い込まれてしまったかのように、何の音も聞こえない。
 しばらくすると、だんだん目が慣れてきたらしく、手を伸ばした所にある壁が、切り出されて積まれた石であることと、闇に白く浮かぶ自分のてのひらを確認することが出来た。
 その時、何かが頭の隅をよぎった。
 闇の中に浮かぶ白い肌が既視感を呼び起こす。それが何を訴えようとしているのか、答えはのど元まで出かかっているのに、どうしても言葉にならない。
 彼は首を傾げる。立ち上がって手を叩く。乾いた音が反響する。綺麗になった手で羽織っている外套の埃を払い、二本の足でしっかり地面を踏みしめ、諦めのようなため息を漏らす。
 残念ながら、やはりこれは夢ではない。

 孤児院を出て、期待と不安が交じり合う旅路だった。人々の噂や、古い文献をもとにたどり着いたのが大陸の東にある広大な砂漠。
 一人では危険だという声を無視し、隊商が使う道を徒歩で進む。オアシスで休憩を取り、岩陰で眠り、砂に埋もれた遺跡を見つけた彼は、意気揚々と足を踏み入れた。
 積み重なっていた石を除けると、地下へ続く道があった。砂漠の下には先人たちが残した地下水路が縦横無尽に広がり、そのどこかに未だ眠ったままの古代の遺産があるという。
 食料と水は数日分しかないのに、そんなことは二の次にして、彼は地下の迷宮に飛び込んだ。帰り道を忘れぬよう、印を残しながら進んでいたはずが、人と竜の戦いを描いた壁画や、次々と見つかる遺物の欠片にすっかり興奮し、気づいた時には、完全に方向感覚を失っていた。
 こうなってしまったからには、むやみに動き回るのは得策ではないと悟った彼は、その場に仰向けになって眠った。目を覚ましてからも動き回らず、少しだけ水を飲み、魔導書の残り頁数を数える。
 こんな状況に追い込まれてようやく、彼は冷静な目で自己分析できるようになっていた。
 所有する下級闇魔法は無機物に対して効力を発揮しない。風の精霊に出口を尋ねようとしても、その気配は感じられず、かつての地下水路には水が一滴もなく、これ以上の水分補給は不可能。
 八方ふさがりだった。
 彼はその場に座りこんでぼんやりと宙を見つめる。床と壁は人工物だが、天井はむき出しの岩盤だった。おそらく、このあたりの地層には透輝石でも含まれているのだろう。闇の中できらきらと輝いている。

 ──星みたいだ……。

 野宿に慣れてしまうと、孤児院にいた頃とは違い、夕食の後、星を眺めることもなくなっていた。偽の星空であっても何故か心は落ち着き、育ての親であり、魔法の基礎を教えてくれた院長の言葉を思い出す。
 ──ひとはてのひらに星を握って生まれてきます。それは自分だけの星であると同時に、夜空の星々同様、地上を照らす数多の輝きの中の一個に過ぎません。たったひとつでは意味を成さないのです。
 反抗期真っ只中だった彼は、院長の言葉の裏に、群れることを強いるような印象を受け、旅へ出る決意をますます強固にした。
 実際、ひとりで旅をするのなら、誰にも頼らないということを前提にしたほうが、未然に危機を回避するという点では間違っていなかった。
 まだまだ庇護を必要とする年齢の彼ですら、欲に目がくらんだ連中からすれば単なる獲物に過ぎない。日の下では善人でも、夜になると目を血走らせて牙を剥いた人間を、彼は旅の中で何度も見た。
 この世で信じられるのは限られている。自分の力と、血の繋がりと、今は遠くなってしまった故郷。
 それだけだ。
 しかし、その頼りとすべく自分の力では、もはやどうにもならない。
 院長から教えてもらった詠唱や、手先の器用な友人の技を思い出しても、袋小路に追い込まれた彼の助けとなるものは見つからなかった。
 あきらめるのはまだ早いものの、空腹のせいなのか、いつまで経っても考えはまとまらず、そんな自分に激しく苛立つ。
 ──もう、どうにでもなれ。
 携帯袋から全ての食料を取り出して口の中に放り込み、胃袋へ流し込むために水を飲む。その作業を黙々と繰り返し、袋を空にして最後に角砂糖を一個ほおばると、自暴自棄な気持ちから一転、心が少し軽くなったような気がした。

 孤児院にいた頃は、甘いものなど滅多に食べられるものではなかった。旅の途中で立ち寄った港町で、問屋から安く砂糖を買うことができた。いざという時の非常食というより、これは故郷へ帰る時の土産にしようと。
 院長が飲む紅茶に一杯、小さな子供たちが食べる焼き菓子には沢山。
 そこには沢山の笑顔がある。大切な人々、大切な場所。
 やさしい思い出の数々が、彼の裡に満ちる。
 ──あきらめるのは、まだ早い。
 彼は大の字になって瞼を閉じた。瞬時にしてたぎった、燃えるような決意とは裏腹に、空腹が満たされれば眠くなるのが人間というものだ。
 とりあえずは眠ろう。そして、肉体と精神を回復させてから、もう一度考えればいい。
 絶対に、生きて帰るんだ。
 外套をたくし上げて頭の下で丸め、枕の当たり具合を確かめて寝返りを打つ。
 一度、横目でちらりと星空を見てから目を閉じ、今度こそ本当に彼は眠った。
 夢も見ないほど、ぐっすりと。

 だから、次に目を覚ました時、砂漠の中で青い泉に足を浸している自分を、しばらくは夢の続きだとしか思えなかったのも無理はなかった。






                                         了