あなたへの月 アリス様
月の夢を、見る。
神の目を追いかけてやってきた灼熱の島、カルバレイス。 あたしは宿の外にある泉のほとりで、水面に映る月を見ていた。 「おい」 突然声を掛けられて、体が跳ね上がるほど驚く。 振り向いた先に居たのは、小憎らしい少年剣士。 彼も今まで休んでいたのだろう、ラフな服装で月光に照らされていた。 「・・・何だ、あんたか・・・吃驚させないでよ」 夜中に神殿に忍び込むと言うことで、昼の内にたっぷりと睡眠を取っておいたお陰で、 あたしは作戦決行までの数時間を持て余していた。こいつも似たようなものだろう。 手持ち無沙汰で外に出たらあたしが居て、何となく声を掛けた・・そんなとこでしょうね。
あたしは再び水面の月に目を戻す。澄み切った湧き水にゆらゆら揺れる月。 幻想的。そんな言葉がよく似合う。水が湧きあがる度に水中でゆらりと踊る砂。 月の煌めきがそれらを甘く照らし出す。 夜空の月に目を向ける。セインガルドでは見た事が無い程の、満天の星空。 その中に一際美しく、冴え冴えと輝く短剣のような三日月。
「・・・・・おい」 「何よ」 「いつまで月を見てるつもりだ」
いつの間にか、リオンはあたしの隣にいた。 細く、白い頬に、月明かりを受けて煌めく金のピアス。 ・・・いいわね、あんたは。そう言うのが似合って。
「時間には戻るわ・・あんたこそ、スタン起こしてきたら?」 あいつ、なかなか起きないから手こずるわよ。 そう言って軽く笑う。リオンの表情は動かない。
「・・・月が人を狂わせるって言う話、信じるか?」 唐突に、リオンがあたしに問い掛けた。目は、真っ直ぐにあたしを捉えている。 「・・・信じないわ」 「・・・・僕は信じる」 リオンはあたしから視線を逸らし、天に輝く月を見上げた。
「今日で、さよならね」 「そうだな」 スタンの乗った飛行竜を見送り、ウッドロウもフィリアも各々の町へと帰っていった。 本当はあたしもさっさと帰るつもりだったのだけれど、子供達へのお土産を買っている内に日が暮れて、 ダリルシェイドの街を取り囲む城壁の門は閉ざされてしまった。 仕方なく、夜の街をふらついていたところにリオンと出くわし、何故か一緒にお食事などをする羽目になった。
リオンはあまり喋らなかった。元々饒舌な方では無いのは知っていたけど、今日は何だか機嫌も悪そうだ。 黙りっぱなしで陰気なのは嫌なので、あたしが喋る。 「あんた、ヒューゴの屋敷に住んでるの?」 「否、兵士用の宿舎だ」 「ご飯、いつも外で食べてるの?一人で?」 「ああ」 「自分で作ったりしないの?」 「僕は、な」 「あ〜、でしょうね。あんた、料理しなさそうだもの」 努めて明るく振る舞うあたし、ぶっきらぼうな答えを簡潔に返すリオン。
・・・・・なんなのよ・・・・・。
自分から食事に誘っておいて、随分苛つかせてくれるじゃない。 段々あたしの方も明るくしようとするのが馬鹿らしく思えてきた。
「何で、あたしを誘ったわけ?」 苛つき、自然と荒くなる語気もそのままに問い掛ける。 「何となく、な」 向こうもあたしが苛ついてるのは分かってるはず。なのにあくまでも奴は冷静に言葉を返す。 怒鳴りたくなるのを必死に押さえる。
「・・・・・いい加減に、して」 あたしらしくない、冷たくて、暗い声。 やっと、リオンが顔を上げた。 気が付くと、あたしの指先はテーブルクロスを掴んでいた。でも、指を離したら、怒鳴ってしまいそうで。 「あたしは、あんたの玩具じゃない・・・」 指先は、力が入りすぎたせいか、真っ白だった。
夜の街を、年老いた猫が歩いてゆく。前足を一本失っている。もう、ろくに踊れないのだろう。 かつては真っ白だったであろう長い体毛は薄汚れて灰色になっていた。 不意に、その猫と目が合う。 曲がったピンのように、ひねくれたまなざし。 誰か、心ない者に傷つけられてきたのだろう。怯えた目。 次の瞬間には、猫は踵を返し、十字路をよろめきながら走り去っていった。
ダリルシェイドの夜空は、光源が多いせいかカルバレイス程星は見えなかった。 ただ、其処に浮かぶ月だけは、同じだった。 半年前の、あの時と・・・きっと、あたしが生まれた時とも、同じ。 「・・・おい」 「何よ」 背後から声を掛けられても、振り向きもせず。其処にいるのがリオンだと分かっているから・・・ 今は、リオンの顔を見たくないから。
「あまり月ばかり見るな」 地球を挟んで対になる月と太陽。太陽の光を受けて闇の中煌めく月。 闇の中だから、こんなにも儚い光が空を支配できる。 光がその姿を誇示するには、闇が必要。 闇がその姿を現す為には、光が必要。 どちらか片方が完全に支配する事等出来やしない・・・。 「月が人を狂わせるって?面白いわね」
「昔は、月の魔力が人を狂わせると信じられていたんだ」 カルバレイスの首都、カルビオラ。 その真ん中に湧きいでるオアシス。 水面に揺らめく月。 「満月と新月の日は、不思議と殺人だの何だのと言う事件が多いんだ」 「其れが、根拠?」 砂漠の夜は冷える。其れを証明するかの様な冷たい風に髪を乱され、片手で髪を掻き上げる。 「それだけじゃないさ」 青白い光に照らされたリオンの手が、あたしの手を掴んだ。細い指。 「じゃあ、何か根拠があるの?」 細く、白い指はけしてたおやかではない。 一目で男の其れと分かる程には力強さを感じるリオンの指が、あたしの髪を手櫛でくしけずる。 月光に照らされたリオンの瞳は、日の光の下で見るのとはまた違う、紫水晶の色をしていた。 紫水晶の瞳に捉えられて、あたしは身動きできなくなる。 あたしの髪をくしけずった指先が、頬へ、そして肩へと降りてきた。 肩口を掴まれ、もう片方の手で顎を摘まれる。
「月は、人を狂わせるんだ・・・・」
柔らかな唇の感触。 何故だろう、あたしは何の抵抗もせず、唇を開く事も無く。 只、触れるだけのキスを、リオンに許した。 開いたままの瞼をゆるゆると閉じて、その感触に神経を尖らせた。
どれだけの時間が経っただろう。それほど長い時間ではないだろうけど、時間の感覚が麻痺していた。 リオンの唇が離れ、漸く息苦しさから解放される。 「・・・・・月に狂わされたから・・こんな事、したの?」 冴え冴えとした、いっそ冷たい程の月明かりが、あたし達を照らしていた。 「・・・満月でもないのに」
「そうね。満月の夜なら・・狂わされるかも知れない」 振り向いたあたしの指が、リオンの髪をくしけずり、ほっそりとした頬を撫でる。 カルビオラでされたのと同じ事を、リオンにしてやる。 肩を掴み、顎を指で摘んで引き寄せ。 只、触れるだけのキス。 リオンもやはり、抵抗しなかった。 最初は開いたままだった紫水晶の瞳をゆっくりと伏せて。
雨が降ったらいいのに。 そうすれば、雨雲に月が覆われて、あたし達は月に狂わされずに済むのに。 でも、何処かであたしは、月を欲している。 例え狂わされても、闇と月がもたらす安らぎを、あたしは欲している。 何時までも熱く火照ったままのあたし自身を冷やして、安らぎたいと、何時も願っていた。
雨の夢を、見る。
・・・・ああ、そうか・・・。 だからあたしは、リオンのキスに抵抗しなかったんだ。 月の様に冷たい眼差し。でも、その奥に誰かを想う様な、優しげな光があった。 傷つける様な冷たさじゃあ、ない。癒す様な、解き放つ様な・・・。 凍える夜に誰もが求める温もりは、度が過ぎれば害にしか成らない。 以前のあたしは、正に其れだった。 レンズを、お金を集める事に必死で、犯罪すれすれの事をして・・結果、身を滅ぼす事に成る処だった。 熱く成り過ぎたあたし、冷た過ぎる程冷たいリオン。
丁度良かった。
暑い真夏に誰もが求める涼しさ。其れもまた、度が過ぎれば害になる。 リオンの眼差しは、熱く火照ったあたしにとって、最初は冷た過ぎたけど。 何時の頃からか、其の冷たい眼差しに安らぎを覚えた。 其の目で見て欲しくて、何度声を掛けたか知れない。
雨の夢を見る。
ねえ、あたしを見て。 あんたの其の冷たい目で。 真昼の砂漠で太陽に灼かれる事に慣れたあたしを冷やしてよ。
炎の夢を見る。
もしかして、あんたも同じだった? 冷え過ぎる夜の砂漠に取り残された様に冷たい自分を。 あたしの熱で灼いて欲しかった?
月の夢を見る。
目を開く。ダリルシェイドの十字路。満月が、酷く綺麗で。 「月に、狂わされたか?」 唇を離すと、目を開きながらリオンが呟いた。 「そう言う事に、しておいて」 冷ややかな色。でも、優しい冷たさ。あたしが二番目に好きな色。紫水晶の瞳。
「・・・・・・・・さよなら」
別れ際にもう一度だけ交わしたキスは、さっきよりほんの少しだけ、深かった。
月の夢を、見る。
END
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