女が死んだ。





呪縛
                  東藤和稀さま





 さめざめと降りしきる雨がほてりきった身体を冷やす。
 少しも寒くはなかった。
 うなだれた花弁がはらりと音を立てる。

 言葉もない行列が続いていた。
 どれも似たような顔をして似かよった黒服に身を包む。
「どうしてこんなことに」
 ささやき声は勝手に耳に入ってきた。
「まだお若い盛りでいらしたのに」
 口々に言う言葉をいちいち理解など出来なかった。

 抱きしめられたまま俺は棺が運ばれていくのを見つめていた。
 あの中に女がいるのだと、そして二度と微笑まないのだと、俺を抱きしめたまま乳母が泣きわめいた。
 冷たいはずの雨を感じなかったのは彼女のぬくもりのせいだったのかもしれない。
 女は故郷の風に吹かれてからも、気が休まる様子を見せなかった。
「アレス、父君はね」
 女は告げ、決まりきった仕草のように嗚咽した。
「父君はシグルド公子に殺されてしまったのよ」
 痛んだ赤茶の髪が、はらはらと流れる。
 この色が好きだった。俺の髪を、女はこの上なく褒めたけれど。どうせならこの赤茶色の髪が欲しかった。
 レンスターの肥沃な大地の色だという。
 すると記憶にないアグストリアは金の色をしているのだろうか。
「父君はシグルド公子の親友でいらしたのに。キュアン王子もその場にいらしたのに。
 殺されてしまったのよ。裏切られたのだわ」
 記憶にある女は俺を抱きしめたりはしなかった。
 ベッドに横になるか、あるいは窓から見える光景を眩しそうに見つめるだけだった。
 乳母によると彼女は病気であったらしい。生まれつき身体が弱く、心労がたまり少しの運動もできなくなってしまったのだ。
「アレス」
 女は俺の頬を撫で、俺を通して遠くを見つめた。
「父君は誇り高い騎士でした」
 俺の前で彼の悪口を言ったことは、ただの一度もなかった。
 乳母が繰り返し彼をののしるのとは対照的だった。

「この剣を大事になさい。これは父君の形見・・・そしておまえがへズルの直系たる証」
 そう言ってくれたら、俺はどんなに嬉しかっただろうか。
 騎士の誇りなんて何の役にも立たないものを、それでも大事にしようと思ったに違いない。
 傭兵などに身をやつし、金のために剣を振るおうなどと考えなかったのではないか。
 だが女は言わなかった。
「アレス」
 女は抱きしめることなく、俺に言葉だけを残した。
「この剣でいつか父君の無念を晴らしてね」
 俺は復讐だけを胸に秘めるようになった。



 ダーナに駐留している傭兵隊には二種類の人間がいる。
 ジャバロー直属の者と、今だけジャバロー配下になっている者だ。
 俺は前者にあたる。ジャバローが傭兵隊を作る、ごく初期のころからのメンバーの一人だ。
 日々訓練と戦の準備を繰り返す。あまりに平和が続くとうっぷん晴らしに忙しい。
 後者は各地で戦の匂いを嗅ぎつける傭兵たちだ。ジャバローの隊が一番多いから、ジャバロー指揮下にいるだけの存在。前者であるためか、俺はこいつらと仲が悪い。
「おい、黒騎士さんよ」
 馬鹿にした口調で見下ろしてきたのは、案の定後者の奴だった。
 名前は覚えていない。茶色の髪の、貧相な顔立ちの傭兵。
「なんだ」
 魔剣の手入れを続けたまま、ちらと向けた視線をまた落とす。
「なんだじゃねぇよ!」
 ガツッと木箱を蹴った音がした。
「さっさと要件を言え。俺は暇人じゃないんだ」
 にらみつける。それが奴にはまた気に入らなかったらしい。
 手に持った二本の鉄の剣に、奴が何しに来たのかを察する。
「いい身分だねぇ、ジャバローの副官ともなると剣を磨いているだけでいいってわけか?」
 つまり。
「おきれいな顔の噂ばっか立って、アイドル気分とはな」
 こいつは。
「噂の剣の腕とやらもどこまでアテになるもんか」
「・・・・・・」
 すっと立ち上がった俺に奴はわずかに身を引いた。
「よほどミストルティンの餌食になりたいらしいな」
 磨いたばかりの魔剣には血錆一つ浮いていない。普通より肉厚なそれを首もとに突きつけられ、奴は慌てたのを隠そうとした。
「け、剣の性能でいい気になってんじゃねぇよ! ってんだよ!
 剣の腕があるってなら、勝負しやがれ。こいつでな」
 じゃらんと鉄の剣が零れる。
 一瞥するだけでそうと分かる安物だ。
「フン」
 鼻を鳴らしたのを、奴は同意と見たらしかった。
「勝負は三本勝負、剣はどっちでも好きな方を使え。そうでなきゃ対等とは言えねぇしな」
 場所はいつもの鍛錬場だ。
 粋がっているのか、虚勢で誤魔化そうとしているのか、奴は口ほど自信ありげには見えなかった。
「フン」
 鉄の剣を拾い上げ、俺は奴と共に訓練場へ向かう。
 ダーナ城中庭に用意された即席の訓練場は、今や賭け会場となっていた。
 喧嘩を売ってきた男が鉄の剣を両手に構える。イザーク系の亜流かと俺は見当をつけた。馬上が得意な傭兵隊のくせにと思ったが、どうやら男は地面の上の方が得意だったらしい。
 ミストルティンを肩から外し、俺は鉄の剣を左手に構えた。
「て、てめ・・・!?」
 わずかに聞こえた怒りの言葉。
 俺は嗤った。
 馬鹿馬鹿しさにへどが出た。
 へズルの後継とやらは、こんなにまで馬鹿にされている。

 魔剣の力に溺れているとでも思ったか?
 おまえが使っても力に翻弄されるだけ。剣ってのはそれにふさわしい腕が要るんだよ。
 そう言ってやりたかったが、俺は何も言わず倒れた男を見下ろした。
 首を斬らないでやったのは気まぐれだった。
 まぁ、腕の腱を斬ってやったからどうせ使いものにはならないだろう。
 足下に放った鉄の剣から、錆びた匂いが漂ってくる。

「相手を見て喧嘩を売ることだな」

 ミストルティンを手に、賭けの結果で騒ぐ訓練場を後にした。



「アーレスっ」
 空に向かいミストルティンを振り上げる。妖しい輝きだけでなく、この剣はどこか危なっかしい。
 剣圧はそれだけで肉を断ち切り、まるで加減が効かない。
 若草のような緑の髪が覗いたのは、夕刻一人で鍛錬している時だった。人の多い訓練場が嫌いで、俺は城の裏庭を使っている。
 数瞬、彼女が誰だか思い至らない。
 薄闇にランプの明かり。ひらひらと舞う衣が視界によみがえる。
 彼女は動きやすい町娘の格好をしていて、夜の印象とはがらっと変わっていた。
 こうしているとただの女の子に見える。
「・・・リーンか」
 リーンはダーナ城に雇われている踊り子の一人だ。
 砂漠にあって少しばかり違和感を覚える緑色の髪は、オアシスにはかえってふさわしいものだと思えた。乾いた心に水を与えるような・・・そんな舞を踊る。
(詩人かよ、俺)
 ガラでもない。
「アレス?」
 返事をしなかったせいだろう、リーンがいぶかしげな顔をする。
 瞳もシレジアの色だ・・・。出身を聞いたことはないが、きっとシレジアだろう。緑の髪はシレジア人の特徴だと聞いている。
「いや、悪い。どうしたんだ?」
 ミストルティンを収め、俺は聞いた。
「どうしたって・・・アレスの方が変だよ?ぼーっとしちゃって」
 ひょい、とタオルを寄越した。
 別に汗をかいていたわけではなかったのだが、ありがたく受け取る。
 タオルを額に当てると眩暈がした。
「ぼうっとしてた?俺が?」
「そうよ。無自覚?」
 リーンは呆れたように言って、それから少し心配そうに声を潜めた。
「悩み事でもあるの?」
 時が止まる。
 ぎくりと胸が痛んだ。
 ・・・息が詰まりそうな沈黙はほんの一瞬だった。
「・・・別にそういうわけじゃない」
 情けないことに狼狽した。まるで知られたくないことを見抜かれたように。
 悩み事などないのだから、狼狽する理由はないはずだというのに。
「アレスってさ。隠すの下手よね」
 足音もなくリーンは距離を縮めた。ふわっとした足取りは、踊り子であるためだろうか。
 リーンは俺の横に座り、俺にも座るよう促した。
「アレスの目って綺麗よね」
 ふっと話題を変えるようにリーンが笑った。
「宝石みたいな青だわ」
 リーンは、華奢な指を伸ばし、俺の輪郭をなぞった。そうすることでもっとよく俺の目を見ようとしていた。
(たまに思うんだが。リーンって無防備だよな・・・。)
 俺はリーンのしたいようにさせておいた。
 この距離は、彼女の瞳の色がよく分かる。彼女の瞳の色は、髪と同じように鮮やかな緑色だ。
「・・・リーン」
 何か話そうと思って出た言葉ではなかった。
 ただ呼びたくなって、俺は呼んだ。
「ん?何?」
 優しい微笑みをする。リーンは踊りだけじゃない。見ているものの気持ちを盛り立て、あるいは また歩んでいこうとする活力を生む存在。
 リーンと俺は、別に何か関係があるわけじゃない。
 リーンは他の女たちと違い、俺に抱かれたいとは思わないらしい。
 対等な位置で話しかけてくるのが心地いい。
「いや。・・・タオルどうもな」
 俺の反応は拍子抜けするものだったらしい。
 リーンは目を丸め、それから笑った。
「どういたしまして」

「ああ、そうそうアレス」
 そろそろ時間だからと立ち上がり、リーンはくるりと振り返る。
「今日も見に来る?」
 ・・・今日は。
「来るなら、ミシェルに一言かけてよ」
「ミシェルに?」
 別に踊りを見に行くつもりはなかった。
「彼女、今日が誕生日なの。アレスってどこがいいのか知らないけど、女の子に人気あるからねー。ミシェルもファンだって言ってたから、喜ぶでしょ?」
 いつも通りのリーンの物言いに、なぜか嬉しくない。
 返事をするのにわずかに時間が必要だった。
 自分が、落胆していることに気づいた。
「ふぅん・・・覚えておく」
「うん、そうして」
 それから機嫌の良さそうな足取りで、リーンは駆けていった。
 リーンの踊りは母から継いだものなのだという。
 孤児で、母親の顔も覚えていないけれど、美しい踊り子だったと伝え聞いたと。
 踊りは好きじゃないとリーンはいう。
 好きなのは母の方だ。
 きっと、リーンと同じ緑色の瞳と緑色の髪をした女性なのだろう。



 俺はミストルティンを抜き、夕陽に照らした。
 父から継いだ魔剣、父から継いだ容姿。何もかもが父に生き写しな姿をしながら、俺は父とはあまりにかけ離れている。
「・・・父上。シグルドが憎いですか?」
 答えは返ってこない。
 父の記憶は俺にはない。父は俺に何も残していない。
「この剣でいつか父君の無念を晴らしてね」
 そう言ったのは母だった。
 赤茶の髪をして、療養のため帰った実家で死んだ。
「俺に何をしろって言うんだ」
 殺せと?
 シグルドを殺すため腕を磨けと?
 それは確かに傭兵に身をやつした俺にはふさわしい。
 殺す相手がすでにこの世にいないことを除けば。
「畜生」
 これは憤りだ。
 何もかもがうまくいかない世の中で。
 ミストルティンだけは妖しく煌めく。
「畜生」
 俺は何のために生きてるんだ。
「畜生」
 一振りごとに輝きは散った。
 今、雨が降っていないことを感謝した。



 女は死んだ。
 俺に呪いの言葉を残して。