けもの道
              アリス様





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 モンスターの体内から脱出した後。
 ルーティの精神の疲労は相当なもので、数日間の静養を余儀なくされた。
いつもで在れば文句を言うはずのリオンが大人しいのは、
宿泊先に雨期が訪れており、仮にルーティが元気でも
出発することが出来ない状態にあるからだ。

 激しく窓を打つ雨粒と遠くで鳴り響く雷鳴に、
いつ止むものかと眉をひそめながら、フィリアはルーティの毛布を掛け直す。
 ドアがノックされた。

「はい。どなたですか?」
「僕だ」
「あ、リオンさん。どうぞ、開いてますわ」

 リオンがいつもの仏頂面で現れ、ドアの向こうを親指で指し示す。
「食堂でスタン達が呼んでるぞ。行って来い」
「あ、はい。ルーティさん、お願いしますね」
「ああ」

 時たま眠りから覚めては食事をとり、また眠る。そんなサイクルがここ数日続いている。
 深く眠っているルーティの頬に、緩いカールのかかった髪が掛かっている。
 リオンは其れを指先で優しく掻き上げてやる。

「寝てばかり居ると、太るぞ」
 いつものように嫌味を言っても、ルーティから返事が返る筈もない。
「う………ん」
 微かに呻き、苦しそうに顔をしかめる。厭な夢でも見ているのだろうか。
「ルーティ……?」
 そっとベッドに手を突き、ルーティの顔を覗き込む。
「やだ………いやぁ………ぃ…か…ないで…」
 そんな言葉を繰り返しながら、ルーティは身を捩る。息が上がり、激しく頭を振る。
「おい、ルーティ」
「いやあっ!!」
 がばっ、とルーティが起き上がる。瞬間、リオンは身を引いたので、衝突は避けられた。
 ルーティの心臓が痛いほど脈打って、
彼女は一瞬、自分が何処にいるのかさえ分からなかった。

「大丈夫か?」
「………………リオン」
 暫くリオンの顔を見つめ、漸く彼のことを思いだしたかのように、リオンの名を呼んだ。
 其れと同時に、我知らず、ルーティはリオンの胸に飛び込んでいた。
 夢の中、リオンが消えてゆく様に恐怖を覚えた。其れが夢だと言うことを、
彼が今此処にいることを確認しようとするかのように、きつくリオンを抱き締める。

「おっ、おい!」
 リオンは慌ててルーティを引き剥がそうと、彼女の肩に手を掛けた。
 だが、触れた肩が震えていることに気付き、引き剥がすのを止める。

「……………泣いてるのか?」
 リオンの胸に縋り付いたままで、ルーティは子供のように泣きじゃくっていた。
 閉じられた瞼から止めどなく零れる涙がリオンの服を濡らしたが、
其れを気にするでもなく、リオンはルーティの肩に掛けていた手を滑らせ、
ベッドに腰を下ろして、彼女の背中に腕を回した。

 なめらかな肌はしっとりと汗ばんで、手のひらに吸い付く。
その背中を優しく叩いて、ルーティが落ち着くのを待つことにした。
 いつか、過去の傷口が開いたとき、ルーティがそうしてくれたように。



「もう、大丈夫」
 照れくさそうにルーティが体を離す。
 其れでも、リオンは背中に回した手を解こうとはしなかった。

「厭な夢だったのか?」
「うん。あんた、見たかも知れないけど、初めて強姦されたときの、夢」
「初めて?」
「こんな仕事してるんだもん、何回もされたわよ。
むしろ、合意の上なんて、一回もないわ」

 苦い笑いをくちびるに乗せ、初めて自分から過去の一端をかいま見せた。
 気丈に振る舞うその言葉の裏に、冷たく、痛みを伴う過去が潜んでいた。
「同情でも、した?」
 くっ、と笑って見上げる彼女のその頬を、軽くつつく。
「誰がするか」
「でしょうね」
 その方が心地良いくらいだわ。ありがと。
 喉の奥までせり上がってきた最後の言葉は、紡がれることなく消えた。
 
 モンスターの魔術か、それとも夢か。
 忌み嫌い、忘れようとしてきた痛みの記憶が引きずり出され、見せつけられ、
其れは体験した当時のように夢にも現れた。

 忘れることなど出来ない。痛いくらい思い知って目を開けると、
其処には慰めなど知らないような少年。
 彼になら、零しても良いだろうか。
 この痛みを、吐き出しきれなかった悲しみを。

 気が付くと、その細い身体にしがみついていた。
 弱みを見せるまいとしていた彼の前でだけ、泣くことが出来たように思う。
 もしこれが他の誰かであったなら、泣きじゃくる彼女は慰められ、其れに甘えれば弱くなっただろう。
慰められる事に甘んじるのは嫌だから、慰めてくれる誰かの手を、彼女は振り払っただろう。

 強がって、意地悪を言い合って、言い負かされて。
 そんな相手だから、本音を余すところ無くぶつけられる相手だったから。
 自分には誰も必要ないと思っていたのに。
 だけど、そんな彼を、ルーティは大事に思っていることを知った。


 戦いの最中、彼が捕らえられたとき、胸の奥が冷たくなった。
 リオンが居なくなるかも知れない、ケガをするかも知れない。
 先程の夢で見た、消えてゆくリオンの姿。彼が、居なくなってしまう夢。
 其れが、堪らなく怖かった。

 相変わらず、身体を包むように回されている腕が心地よくて、
もう一度その胸に身体を寄せたかったけれど、これ以上甘えては迷惑になる。
 彼は自分の何でもないから。ただの―――――仲間だから。



「もう、横になれ。雨期が明けたら、出発するんだからな」
 ルーティの背中に回していた手の片方で身体を支え、そっとベッドに寝かせる。
今迄の彼からは、想像も付かない行動だった。
 当のルーティも、いつもなら「一人で出来る」とか言って手を振り払うくせに、
彼女はされるがままに寝かされ、大人しく毛布を掛けられる。

「うん……あのね、リオン」
「なんだ?」
 ためらいがちに紡がれた言葉を追いかけて目をやると、
いつの間にか向こうを向いたルーティの首が、耳まで真っ赤だった。

「モンスターの中でさ、あんたが捕まったじゃない?その時分かったことなんだけど…
……んと……別に、仲間だとかそう言うの、押しつける気はないんだけどさ。
………ただね。ただ………あんたが居なくなったら、あたし、厭だから。
…………口は悪いし、ひねくれてるし、ひとこと多いけど………
あんたのこと、結構気に入ってるんだ。…………そんだけ!じゃね!おやすみ!」

 どもりながらも言いたいことを一気に吐き出すと、ルーティは
リオンの言葉も聞かずに、毛布を頭からひっかぶった。

 『嫌いじゃない』。ただ其れだけを言いたくて、だけど、素直には言えなくて。
 あの悪夢を見て、初めて気付いたのだ。
 自分は、口で言うほどリオンを嫌っていないことに。
 だから、彼を失いたくないと思った。
 信じているから、助けを求めた。
 自分一人でどうしようもなく絶望したときに、仲間と信じていたからこそ、
彼に助けを求めたのだ。消えてゆく彼を繋ぎ止めようと、呼んだのだ。

 毛布の中、湯気でも出そうなくらい火照っている自分の頬を押さえながら
もしかしたら帰ってくるかも知れない、彼の答えに耳を澄ました。


「……………早く眠ってしまえ。お前以外に回復役はいないんだからな」

 ルーティが頭まで被った毛布を少し引き剥がしてそう言うと、
リオンは剥き出しになった彼女のこめかみに、小さくキスを落とした。
 悪夢に魘されないための、古いまじない。これをするのは、親愛の証。

「…………………うん」

 リオンのキスを受けて、ルーティは無意識に拳を口許に当て、頬が緩むのを抑えた。
 少しだけほころんだリオンの口許は目に入らなかったが、
其れでも、ほんの少し、リオンが心を許してくれたのが分かった。

 アメジストの瞳が見上げた空は、いつの間にか晴れ渡っていた。
 もう大丈夫。生きてゆける。
「外………晴れたね」
「そうだな」

「おやすみ………ルーティ」
 自分のしたことが急に気恥ずかしくなって、リオンはそそくさと部屋を出ていった。


 ルーティも、リオンも、共に傷付けられ、裏切られ、其れでも必死に生きてきた。
 同情など欲しくない。哀れみなんて必要ない。
 ただ、欲しいのは、理解してくれる人。自分を本当に受け入れてくれる人。
 傷を舐め逢う関係ではなくて、お互いに背中を預けられる、そんな存在。
 二人はよく似ていて、同じものを欲していた。
 いつか、この傷だらけの腕で、血まみれの手でお互いを守れるようになりたい。
 一人で生きられない訳ではないけれど、きっと、二人で生きていける。
 其れを相手が望んでいるかは分からないけれど。
 二人で背中を守りながら生きてゆけたら、どんなに良いだろう。

 穢れているなんて思わない。
 だって、あなたはこんなにも綺麗だから。
 真っ直ぐ前を向いて、刃の煌めきを瞳に宿して。
 許されるなら、共に生きてゆきたい。其の手を取り合って。


 静かに扉が閉じられ、リオンの気配が少し向こうの部屋へと消えてゆく。
 雨期が明けるのは数日先だが、明日にはもう、元のように動き回れるだろう。
 失いたくないから、せめて強くなろう。
 瞬きをする間ほどの、束の間の仲間であっても、彼の人を失いたくないから。
 ほんの僅かな間、共に旅が出来るだけの人だけど、
自分の中では他の何者にも代え難いほど、大きな存在だから。
 小さな手のひらが、誓いと共にきつく握りしめられた。


「悔しいから、正面からは絶対言わないけど…………………大好きだよ」
 紅の唇が、笑みの形を刻む。
 そんな姿を、天の頂を支配する太陽が祝福していた。







終わり