セルティ・ストゥルルソンは瞬きをした。 この池袋で彼女は人並みに視覚を働かせてきたが、今はまた違う視覚でもって池袋を見つめている。池袋。この混沌がごったがえしたような、平和で雑多な愛おしい街。 池袋は戦場が通り過ぎ、今はいつもと同じ日常を甘受しようとしている。いや、しようとしていた。
セルティ・ストゥルルソンは足を踏み出した。黒い影が一杯に広がり、池袋がセルティの縄張りになる。 携帯から聞こえる好きな男の声。しずかに、新羅。呟くと声が怯えたように止まった。それは恐怖故だったが、セルティには気にならなかった。 黄色い少年の、理解できなげな見開いた瞳。彼は幼い、とても若い。だからこそ彼の注視は親友に向けられ、彼になんという言葉をかけようか、それで一杯になっている。セルティは横を通り過ぎた。 赤い少女の、燃える切っ先。少女は大切な少年の傍に駆け寄ろうとしている。『娘』は愛しい男に駆け寄ろうとしている。刃はセルティへの罵り声をあげ、零れ落ちたものを引きとめようとしていた。セルティは横を通り過ぎた。 死に掛けている道化師。腹に突き刺さったボールペンは視界にない。彼は普通の人間なりに、限界まで研ぎ澄まされた技術で場を凝視していた。浮かんでいたのはやはり恐怖だった。セルティは視線を外す。 青い少年の、静かな興奮。彼は自分を支配し損ねている。彼は場を支配している。訪れた進化は望んだものなのか操られたものなのか、彼の右手にはボールペンが握られている。なんでもなさそうに指紋を拭取った。彼ではない者によって始められた戦争が、今彼の手で集約しようとしていた。セルティは溜息をついた。
翳む視界に立ったセルティに、最強の男の表情が、幽かに笑った。穏やかで静かで、彼は本当は、名前どおりの男だ。 セルティの友人である男を彼女はよく知っていて、戦いを望まないこともよく知っていた。 だが、セルティ・ストゥルルソンには関係がなかった。 慈母のように彼女は微笑み、男の名を呼ぶ。
「静雄」
平和島静雄は驚いたように彼女を見つめ返した。セルティは塞がっていない右手を差し出し、静雄の手を取る。携帯電話が滑り落ち、通話口からは新羅の声が聞こえている。 セルティ・ストゥルルソンは池袋の全てを黙殺した。
「セルティ」
契約は叶う。 その夜、セルティ・ストゥルルソンと平和島静雄は池袋を離れた。
「君は知っていたはずだ」 新羅は怒鳴っていた。悲しくって悔しくてどうしようもなく辛くて、諦めた口調で。 「君は、知っていたはずだ!」 ばけものが捨てた携帯から聞こえる声が、朦朧とする意識に五月蝿く響く。 「首は僕を、僕達を。君を連れて行ってなどくれるものか」 ああセルティ、僕のセルティ!血反吐を吐くような声に、罪歌は怒鳴りたいのはこっちよ、と思っていた。酷い、酷いわ。私の愛が敗れたなんて。
賭けには負け、保険は無駄。 臨也は残された只人達を哄笑する。ああ、妖刀もいたっけ、どちらにせよ連れてはいかれないのだが!
「ふざけてるよね、静雄」 臨也は賭けに負けた。分の悪い賭けだった。 どうしたって、デュラハンが選ぶ人間など、一人しか思いつかない! |